ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

さもしい

 「写真」京橋の一角に長らく閉鎖されていたビルがあったのだけれど、昨日通りかかったらもうすっかり姿形がなくなっていた。今や広島で暮らしている友達が働く会社の営業所が入っていたこともあるビルだったので、ちょっともの寂しい。
 麻生太郎が「さもしい」といったことを撤回するのしないのと、なんとも潔くない話を繰り返している。その姿そのものがもう既に「さもしい」。そもそも定額給付金なるひとり1万2千円とかの金を配る目的が、最初は生活支援目的としていたものが、今は経済対策だと云っているんだけれど、それがなんだろうと、住民登録してある人にはおしなべて金を配ると云うことだけは最初から今まで何も変わっていない。
 高額所得者、それの定義が全く不明だけれども、にとっての1万2千円と年金生活者や不当に格安な賃金で就労せざるを得ない状況に追いやられている人にとっての1万2千円は意味が大きく違う。違うけれども、貰っても貰わなくても今の生活が変わるということは両方ともない。残せるものが手に入るほどの金額ではない。いつの間にかなくなっちゃうんだろう。
 経済が回ることに力点を置くのであれば、高額所得者ががんがん金を使えばいいわけで、それだったらいちいちおしなべて1万2千円を配る必要なんてないじゃないか。彼らが金を遣わないわけにはいかない制度を作ればいいのだ。例えば障害者自立法なんてものは改正して、なかなか収入を得にくいしょうがい者のみなさんから一割負担を強要しないで、応能負担にしたらいい。所得税の累進化を高めたらいい。寄付行為に対する非課税をもっと緩めたらいい。
 根本的な貯蓄一辺倒社会を消費社会にするんだったら、高齢者の介護システムを「老後の備え」を気にしなくても良い形にすることができればあっという間に転換できると考える。それについては他国の例でいったらいくらでも参考にするシステムがあるのに、社会保障審議会や経済財政審議会がトータルの形で討議することができないのを見ていると、ひょっとしてこの国を司る中枢というのはもはや機能していないのか、あるいはそんなものが存在したことがないのかも知れないと愕然とする。
 問題は「さもしい」といったかいわないか、撤回するのかしないのか、そんな話じゃないわけで、どうやって抱え込んでいる金を市中に吐き出させるかということではないのか。