ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

無知を露呈

 先日京都に行ったときのことである。嵯峨野にある「祗王寺(こちら)」という大変に有名なお寺に行った。尼寺だそうだ。いかんせん日本の歴史に疎い私だからそのいわれがどこにどうあってか知らないし、移り気の清盛の寵愛を一度は受けた女性が仏門に入って暮らした庵だというのに、どうしても忘れられずに清盛の供養塔が建っているのは許せないものがあるなぁなんぞと余計なお世話を思っていた。
 ところがここのお庭はずいぶんと綺麗に手が入っていて、その片隅には様々な苔が育てられていた。これを見てまたもや驚いてしまったのである。こんなにたくさんの種類があるのだとは思いもよらなかった。そういえば子ども心に行く先々でなんだか雰囲気や色の違う苔っていうのはあるんだが、あっちは苔でこっちは苔とはいわないんじゃないかと思っていたのだ。


 人間はなんでも自分の枠でしか捉えられないものだからその枠の中で見たものを判断しようとする。そして価値観をそこに下してしまう。そのつまらない狭い枠にいつ気がつくのかというのは、こうしてみるとなかなか難しくて、中にはいっこうに気がつかずに人生を終えてしまう人はたくさんいそうだ。私もこのままかも知れない。しかし、そのきっかけは結構単純で、百聞は一見にしかないということか。
 そんなことを実に知らしめられたのはいい歳になってから加わった学校のある先生の授業でだった。その先生は私と全く同じ年齢なのだけれど、「ものを見る」という視点が異なっている。六面体を七つめの面から見るというべきか・・・。
 私のようになんにも手を出さないで佇んでいるものは常にやらないためのいい訳を考えているわけだけれど、そのいい訳をものの見事に粉砕してくれる。ところがその時に自分の枠に縛られていると、それを理解することができない。一歩深みに嵌ろうとしないでいるとずっとその枠を拡げられない。はまっちまうのは怖く、そして面倒なのだ。
 それに自分の枠の中にいればいつでも自分は正しいのだものなぁ。