ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

One For All - All For One

 生活協同組合思想から始まっているらしいこの言葉、時々引用されるのを聴く。この言葉の後半は相互扶助という観点から考えるとはなはだ含蓄のある言葉だといえるんだろう。みんなでひとりひとりの個人を大切にして気を遣っていこうじゃないかという風に聞こえるものね。問題は前半だ。この言葉の本当の意味はひとりひとりの人間がみんなのことを考えて行動しよう、あるいはひとりひとりの人間からなる全員のために資することができるようにしよう、というのが本来の意味だと思う。つまり、前半も後半も同じことをいっている、と。
 しかしながら、残念なことに多くの場合、この「One For All」は「滅私奉公」と同意義に使われてしまう。つまり、一人の人間が勝手に主張したら組織全体に支障を来す、だから協調しろ、つまりわがままをいうな、個人行動はゆるさんぞ、という具合に使われる。
 特にスポーツの団体競技の現場ではこの言葉は良く引き合いに出されている。なんとなくスマートに聞こえるのか、あるいは深く考えなくてもぽんと落ちてくるような言葉だからだろうか。
 もともと遊びから始まったものがどんどん先鋭化して、専門化したものがスポーツなんだと思うのだけれど、特に団体スポーツは作戦や偵察や敵より優れた用具を考えたりする点で戦争とかなり似ている。そしていささか強引ではあるが、日本の戦争が兵站を重要視しなかったように日本のスポーツの現場もこれまではこの点ではあんまりエネルギーを注がなかった。「ガッツ」と「根性」で頑張らせてきたし、そういうことに耐えることが精神を鍛えることそのものだと考えられている。「欲しがりません勝つまでは」だった。
 そしてそれは企業の現場でもそのまま引用されてそれが当然のようにいわれるのだった。なにがあろうと仕事に出るのが当たり前で、その背後に多くの家族が耐えてきていたし、それが美談だった。
 私のかつての職場にはこの言葉が大好きな野球出身の上司がいた。彼はたった6人の従業員を前にしてしばしばこの言葉を強調した。しかし、残念なことに彼が意味しているのは「従業員は全員俺のために働け」というものであることが明白で、全員がしらけていた。だから、彼がそんなことをいえばいうほど意味がなくなるのだった。辞めた女性の代わりに、仕事に全く関係のない、自分の利害のためだけにとんでもない女性を雇った時にはこいつのために仕事をする気を完全に失った。しかもそんな人間をそのままにしている親会社にもあきれた。
 やや、こんな話になるとは。