ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

井上ひさし

 彼の訃報が流れてから、数々の著作が紹介されている。井上ひさしといえばなんたって「吉里吉里人」だということになりそうだ。私もいろいろと読んだ気もするのだけれど面白かったのは「不忠臣蔵」とこの長編だろうか。
 「話の特集」に連載されていた「江戸紫絵巻源氏」を見ながら(読みながらではなく)、この人は原稿用紙の枡目をどうやって何行も一辺に埋めようかと工夫してこうやっているんだなぁと想像したりしていた。その実態がどうだったのかというのをここで引用してお見せできないのが残念だ。ま、書棚の奥にしまい込んだ(そんなことをするのにふさわしいとは思えないけれど私の青春がつまっているので捨てられない)「話の特集」のバックナンバーをひっくり返してみたら見つかるかもしれない。
 ところで「吉里吉里人」なんだけれど、これは連載の開始が筑摩書房が1973年6月に創刊した「終末から」という雑誌で始まった。この雑誌の創刊を私はどうやって知ったのかが分からないのだけれど、その当時私は静岡の清水に暮らしていた。当時のあの街で書店といったら清水銀座の戸田書店だったはずで、私はそこで買ったのだろうか。それとも結婚して半年ほどだったから挨拶やらなんやらで時々帰っていた東京で買い求めたのだろうか。今となっては全く分かる手だてがない。
 ところが私はこの雑誌を終刊になった第9号まできちんと保管している。第7号が創刊から丁度一年後に発刊されているのだけれど、この号には「吉里吉里人」が載っていない。巻末に「読者に」というコラムがあって、そこにこう書かれている。

 読者から絶大な期待を寄せられている「吉里吉里人」、時間切れで本号欠載の止むなきに至る。イラストのマキさんにも旅館で待機していただき、ギリギリまで応変の体制で待ったのだが、水泡。深くお詫びする。編集部気付、「井上ひさし先生に、ダンコ、抗議と励ましのお便りを!」

 編集後記には松田哲夫、祝部陸大、石井信平、原田奈翁雄、日比幸一の名前がある。
 この次の第8号にはかなりわずかだけれど、「吉里吉里人」の連載その6が載っている。ということはそれまでにもう一度欠載になった号があるはずだ。第9号の終刊号に掲載されていた総目次から見るとそれは第4号のようだけれど、取り出してみると280頁に「吉里吉里国のキリキリ舞い」という言い訳の弁が2頁にわたって書かれている。
 なんとこの号では荒畑寒村石牟礼道子が対談をしているのだ。
 井上ひさしは1976年に、国立オーストラリア大学(Australia National University)アジア学部日本語科から客員教授に招聘されて渡豪。1977年に「黄色い鼠」を書いている。
「手鎖心中」はあちらこちらで代表作といわれているけれど、私は全く手にしたことがない。