ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

NHKスペシャル

 NHKスペシャル「消えた高齢者“無縁社会”の闇」の再放送があった。この再放送は事前にチェックしていなくて、twitterで誰かが書いていたので急遽テレビをつけてみたというタイミングだった。
 もちろんこの企画は例の足立区でミイラ化した死体で見つかった男性の件から始まった話だ。ひとりは母親と暮らしていることになっているものの、実は母親とは随分前に離れたままの長女の話で、彼女は母親のためにそれまで保険料も支払ってきたのだという。昭和35年に父親を亡くし、母、長女、弟の三人で暮らし始めたものの、弟が定職に就かないからと離れて暮らそうとしたが、母親は息子との生活を選び、長女はひとりで暮らし始めた。それでも母親の身が心配で手続きだけはしてきたけれど、実はどこにいるのかもわからない。弟は路上生活になったらしいとはわかったけれど、その後が不明。
 44歳の足に障がいを持つ男性は父親の介護のために仕事を辞めて帰郷。父が亡くなり、その遺族年金を貰う母親と二人で暮らす。母親が心臓を患って救急搬送。緊急手術で一命は取り留めるが、この母親が亡くなったら、彼には収入がないし、仕事がない。
 39歳の男性は、母親が大病を患って死に、市役所を定年で退職した父の退職金は全部その治療費に消えた。母が亡くなってすぐに心臓病を患って妹が急死。父は認知症を発症し、どうして良いかもわからずそのまま暮らしたが亡くなる。二階に死体をおいて、毎日線香を上げたけれど、このまま届けたら、もう一銭も金が入ってこなくなると、わかっていながらそのままにしていた。暮らしていたのは一軒家の自宅。
 大田区地域包括支援センターの話。もしもの時のためにセンターの連絡先を書いたキーホルダーを登録するシステムを採用している。ある日、(多分京浜島)公園の管理事務所にこのキーホルダーのついた鍵が届けられる。その連絡先に電話するともう既に使われていない。センターに登録されていた住所にいっていると、8ヶ月前にもう既に転居している。センターに登録されている緊急連絡先に連絡するとそれは弟さんで確かに一度表れたというがそれっきり。折角登録されていたのに、そこで途切れてしまっていた。
 今の社会だとそれまで繋がっていた縁が、簡単にぷっつり切れてしまい、一度切れたらもう二度と繋がらなくなってしまう。とても簡単に糸の切れた凧だらけになってしまう。
 この国にはかなり昔からある地域の民生委員というシステムがある。しかし、居住スタイルが大変に大きく変わった点、そしてかつてに較べたら「孤立して暮らしたい」意識が異常なまでに発達してしまった点からすでに機能しなくなってきている。なにしろ民生委員は無給のボランティア活動であるし、そうした人が立ち入りにくい人びとの意識に変化している。
 なにしろ、地域包括支援センターですら、個人の情報を右から左に入手しにくい現状にあるというのだ。つまり、人びとの意識の上で誰からも立ち入られたくない、という考えが驚くほど発達してしまったということか。それは一体なにゆえに起こったことだろうか。
 一方、就業するということがどうしてこんなに難しいことになってしまったのだろうか。なんでも省力化を図ることがコスト・セイブの根幹で、その技術にわが国は多大な精力を費やしてきて、結局人間の力をそんなに必要としなくなってきたということなのだろうか。
 労賃の安い国に生産拠点を動かし、消費市場として国内を捉えるグローバル化の波に抗するためにこの国の労働力は企業によって切り買いされている。必要な時のみ、誰でも良い、その時にそこにいる労働力を限定時間だけ導入するというシステムである。いってみればロボットを買うようなものだ。そうしないとこの国の大企業は存在し得ないのだという。
 こんな国を目指して私たちは国を捨て、故郷を捨てて都会に集住し、三交代勤務にも耐え、単身赴任にも耐え、家族とも離れて暮らし、挙げ句の果てに「急に家族の元に返ってこられたって、困っちゃう」というシステムに甘んじてきたんだったのだ。
 あの時「所得倍増計画」で行くんだぞ、その代わりに「貧乏人は麦を食えば良いんで、でもそうはならないからね」というような甘い言葉に乗ってしまい、気がついたらこうなっていたんじゃなかっただろうか。
 どうやら、この国の多くの部分で、周りに知っている人のいない状況で暮らしている人たちだらけになっているらしい。「余計なお世話」をする人たちになるにはどうしたら良いのだろうか。
 自分が暮らしている集合住宅にも高齢者の人たちがぽつぽつとおられる。余計なお世話を考える必要があるかも知れない。
 地上デジタルテレビへのアナログからの移行は、実はこうした高齢者の方々の状況を把握する良いチャンスなのかも知れない。若い人たちは勝手にチョチョイのチョイと切り替えていくことができるかも知れないけれど、高齢者はどうしたものか逡巡していることも考えられる。