ほぼ足りてまだ欲 その先

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おふくろ

今週のお題「お母さん、ありがとう」
 あんまりこういうことを一生懸命書くと「あいつ、マザコンじゃないの?」といわれかねないけれど、もうとっくにおふくろが死んでいなくなっちまったので、それもないだろうと安心して書くかな。
 うちのオフクロは大正の中頃の生まれだったのだけれど、村で女子師範にいったのは私が初めてだったんだといっていた。多分相当に自慢だったのだ。戦争中にどんどん学校の先生も召集されてしまって先生が足りなくなり、教員をやっていなかったのだけれど、村長にやってくれといわれたので教員をやったといっていた。じゃ、なんのために女子師範なんていったんだと思ったが、あんまり人のことはいえないのが私の人生だから、黙っていた。
 だから、私が子どもの頃から塾に行かされていたのかも知れない。そういえばうちにはピアノはなかったけれど、足踏みのオルガンがあった。多分ピアノは高くて買えなかったのだろう。足踏みのオルガンが家にあったといううちは記憶にない。多分あれはおふくろの趣味だ。バイエルンの最初のあたりをあのオルガンで見よう見まねで弾いた記憶はあるが、鍵盤楽器をマスターすることはなかった。惜しかった。あれでマスターしていたら、今頃の音楽生活は随分違ったものになったことだろう。
 やたらと塾に行かされた。中学受験の頃から行かされた。最後は高校三年を終わるまで行かされた。最後は父親に英語ばかりやらずに数学をやれといわれたけれど、抵抗していた。その塾も見付けてきたのはオフクロだ。なにしろ引っ越しをして転校する中学もオフクロが決めてきた。
 そうやって考えると、あの時代にオフクロの友だち付き合いの情報網だけでその一連を判断してきたのだから結構アンテナを張っていたということなんだろう。
 時としてあまりにも頑固で閉口した。それは自分が情報として持っていないところに子どもが入っていこうとしている時のことで、あれは材料がないから判断のしようがなくて、取り敢えず反対だったのだろうか。
 食生活上からいったらかなり手抜きの感は否めないけれど、結構な好奇心に駆られた自分の世界を創っていたようだ。彼女が死んでから本棚を見たら、良く本を読んでいたんだなぁと感心した。