ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

「ほんまち蔵出し市」

 長野東信地区に来ると必ず足を向けるところに小諸の北国街道沿いの本町地区というのがある。初めは某大学の先生に連れられて夏ゼミ合宿のような形で訪れた。その時は古い街道沿いのお店をそのまま潰すというのを地域の人が借り受けてはじめた蕎麦屋が目的地だった。その町おこしにその先生が一役買っているという話なのだった。
 それ以来夏に友達のところに遊びに来るたびに遊びに行っている。今年は丁度土曜日に「蔵出し市」というものをやっているところだった。これまで古そうな家だなぁと思ってはいたけれど、中を見たことのない家に入れてくれるという。古い倉を公開していたり、元庄屋さんのお宅の中を見せてくれたりした。
 おもしろかったのは元魚屋さんのお宅で、今の代のご主人が説明をしてくださる。ここのお宅は造り付けの冷凍・冷蔵庫があったそうで、当時、南千住にあったシバタという機械メーカーが作ったようだ。多分機械の中心は大型のコンプレッサーだったのだろうけれど、もしもの時に備えてその機械類のスケッチが描いてあって、そこにそれぞれの名称が記入してある。何か故障があったときに、電話でも説明がしやすいように備えてあるわけだ。利用者オリエンティッドな考え方で、さすがなのだけれど、これが書いてある用紙がなぜか「陸軍」と書かれた便せんなのが不思議だ。
 ご主人が取り出したアルバム状のものを開いてみると、そこには二代前のご主人が書いたといわれるガリ版刷りのチラシが何枚も何枚も、貼ってある。しかもそれが黒一色ではなくて、赤やら、青やら、緑の多色刷りになっている。ということはスクリーンがそれだけの数用意されていたということになる。その中に書かれたカットも、レイアウトも、コピーもとても地方の魚屋さんの旦那が考えたとは思えないできで、驚く。

 この界隈ではどこに行っても建物が200数十年のものでと決まっている。大火事でもあったのかと思ったら、1747年に台風が来て、この辺り一帯に鉄砲水が出て、この商店街は全滅したのだというのだ。しかし、この本町の真っ直ぐな通りはどちらかといったら尾根部分にあるのにと不思議だけれど、この時の水はたいそうな規模だったようで、町屋館に行ってみると当時どこまでが流されたかの古地図が残っているのだった。

 私が知っている小諸のお城跡といったら「小諸なる古城のほとり 雲ひとり遊子悲しむ」の碑が残っている天守閣跡しか知らなかったけれど、この城の区域はとてつもなく大きかったそうで、今や鉄道がその城を分断して通ってしまったので、こちら側を城としてほとんどの人が認識しないで通り過ぎてしまうのだった。

 思いだしたこと:今の八十二銀行は二つ目の八十二銀行で、それまであった六十三銀行と十九銀行が合併してできたんだってこと。この街には他に小諸銀行もあった。そのあとは今は萬屋の骨董品屋になっている。二階の元頭取室には天井に鏝彫刻が施してある、というのでわざわざ萬屋にあがってみてきた。今となっては非常に違和感のある天井である。
 軽井沢に来た若い人たちはアウトレットで買い物をするか、あるいは旧軽で食べ物をついばむくらいしかしていないけれど、実は追分から御代田、はたまた小諸から上田に足を伸ばすと面白いことはまだまだいくらでもある。