ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

食べる

 食べたいという欲求ってものは本能的なものといわれているけれど、本当にそうなのかなぁと不思議でしょうがない。お腹が減って、やるせなくて、寂しくて、我慢ができなくなるのが本能だってことなのだろうか。だったら、その辺にあるなんでも良いから口に放り込んで、その「空腹感」なるものが収まってしまえばそれで良いって事じゃないのか。
 然るに、できることなら生肉じゃなくて醤油味のついた牛丼の方が喰いたいし、しかもできることならすき焼きが良いし、できることだったら松阪の和田金で食べたいと思うのはなぜなんだろうか。
 これはもう既に本能の域を完全に逸脱しているじゃないか。それでいて歯で咀嚼して舌で味を捉え、喉で感触を捉えたらもうそれで終わりだ。そこから先は吉野屋だろうと松屋の牛丼だろうと、ちんや、今半、スギモトのすき焼きだろうと和田金のとっておきだろうと全部一緒で、何もかも「本能」という意味からいったら変わりがないのだ。
 口に頬張り、滞留するその僅か2-3分、いや、1-2分、いや酷い奴になると数秒の間の違いでしかない。それに300円から数万円までの開きを費やすのである。その大きな違いを負担しようとするのはどうしてなんだろうか。ただただ、その何分かの行為にそれだけ費やしても良い、という実質的な楽しみもあるのかも知れないけれど、その大半はそんなものにそんな大枚を果たすことができる自分に対するこれ見よがし自己満足なんじゃないのか?あるいはそういうものを知っている自分ひけらかしたい欲求なんじゃないのか。つまり食の本能といっているのは実は人に見せびらかしたいという欲求のことなんじゃないかと。
 それはそれは旨いものを大枚をはたいて手に入れることができたとしたら、私は黙っちゃいられない。あらゆる手段を駆使して、「俺はこんなものを喰った」といってあっちでもこっちでも喋り、書きまくるだろう。しかし、結局それは金さえ出せばどうにでもなるってものなんじゃないだろうか。
 ということで𠮷牛も和田金も全く次元は同じだということになったところで、今日は近所にできたランチ・ハンバーグを食べに行くんだね。と張り切って出たら火曜日定休だった。代わりに昔から知っているけれど、一度も入ったことのない店に入った。