大阪市議会は大阪維新の会、公明、自民が共同提案という形で国歌起立条例案を昨日28日の深夜にまで持ちこんでこれを可決したのだそうだ。大阪には大阪府条例が既にある。にもかかわらず大阪市にもこの条例を作り出した橋下維新の会のスタンスはこの条例そのものもさることながら、ここで彼らの力を見せつけるという意図が非常に重要な部分を占めている。
いうまでもなく、橋下維新の会には多くの既存保守政党が臆面もなく擦り寄っており、東の元不良小説作家も擦り寄っている。橋下維新の会はこのあと大阪市の公務員労組を叩きつぶし、その勢いに乗って大阪市の教育方針を戦後これまでどんどん自由な発想と自分の創造性の発揮に軸足を置いてきたものが日本の文化を壊して貶めてきたという論理でかつての息苦しい、そして暴力的に多様性を否定するシステムに戻そうとする方向性をあからさまにしてきている。
たかだか、東の元不良小説作家程度はどうにでもなると思っていたけれど、彼の差別主義的な、教養のかけらすら感じられない言動が東京都民に受け入れられており、どんな独裁的な言質も「これまでになくはっきり物を言う」という実にくだらない価値観で生きながらえている状況の中にあり、そこへもってきて橋下維新の会の人を人と思わぬやり方に一気に雪崩を打った世の中になることに異を唱えないわけにはいかない。
彼ら、すなわち、元不良小説作家、元タレント弁護士らのどこがおかしいかといえば、あれほど多くの国民を死に追いやった挙げ句の果てにその総括は全く自らの手で行うことなくここまで来てしまったこの国を、またぞろあの時の価値観に揺り戻そうとするところにあるだけではなくて、彼らの考え方が巧くいっている人間達、つまり要領よくこの世の中を渡ることが幸運にもできてしまっている人間達だけのものにしていこうとしているところにあり、それはつまり、社会の階層化を促進するところにある。
このまま黙っていると、必ずこの世の中は元に巻き戻されていってしまう。それでなくても、そうではないだろうと思っていた民主党も今まさに、巧くやれている連中のためだけの政治に邁進しているだけに、力ない層はまたあの頃そうであった「奴隷」となってしまう。
はなはだ残念なことに「奴隷」となってしまうと自分から考える必要はないし、抑圧者からのお情けを頂戴してカツカツに生きることができてしまう。そして、見捨てられた時には「自分の努力が足りなかったからなのだ」と納得させられてしまう。
確かに今の世の中で市バスの運転手が年収一千万貰っていると聞いたらびっくりする。「羨ましいなぁ」と思う。それでは周りの人たちの年収がそれに互するくらいになればそうはならない。バブルの時にその市バスの運転手はどんな立場にいたのだろうか。物価の変動にあわせて給料を調整しなかったのは一体誰だったのか。
円高になった時、超大企業は「これではやっていけない、でていく」と直ぐに反応した。では円安に振れた時超大企業は「こんなに儲かっちゃうから、払っていない法人税をこれだけ払う」と反応するだろうか。しないだろう。市バスの運転手が黙って自分の報酬を死守したことは怪しからんけれど、内部留保を抱えたまま「円高を放置するならでていく」と主張し、法人税を負けろ負けろと主張する経団連は怪しからんことはないのか。
ひょっとすると「奴隷」の好きな国民なのかも知れないなぁ。だったら石原慎太郎も橋下徹もその象徴として銅像にでもしたらどうだ。