ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

鶴見線


 「タモリ倶楽部」が鶴見線だった。週末の撮影だった。なんでわかるかというと、がらんとしていたからだ。鶴見から乗り込まずに、国道から乗り込んだ。未だに変わっていない。彼らが乗り込んだ電車を見て驚いた。15年行ってないんだから変わっていておかしくないけれど、ステンレスの電車が三両の編成になっていた。昔は戦争直後に走っていたような茶色の一両で前後に運転席がついているという非常に珍しい車両が昼間は走っていた。
 近所に県立の底辺高といわれる高校があって、彼らが試験期間にはたった一両でやってくる昼間の電車に満載になっているだけではなくて、車内は阿鼻叫喚となっていて、窓から空き缶は放り投げるは、駅に降りては煙草は吸っているはで、大騒ぎになっていた。あの高校も他の高校と統合されてとうとうなくなったと聞いた。
 休みの日の好天気の鶴見線を番組は一編成を貸し切っていて、全く他の人がいない鶴見線を走っていた。正月じゃないかというくらいに他の人がいない。ちょっと不気味なくらい誰も人がいない。
 鶴見小野のプラットホームにも人はいない。弁天橋にはJRの人間がいるくらい。浅野も誰もいない。安善もいない。大川の支線に入っても誰もいない。この駅は海芝浦と同様行き止まり。休日ダイヤは三本しかここまで来ない。休日出勤する人は一体どうするんだろう。
 そういえば弁天橋に通っていた頃は、休日出勤をする時は自分の車で工場へ乗り入れていた。多分そうでもしないと鶴見から弁天橋へ行くのが不便だったからだろう。それにしても当時は休日出勤なんて珍しいと思っていなかった。なにしろ私が働いていた会社は係長になったらもうすでに組合員ではなくなったから、どんなに残業しようと、休日に出勤しようと割り増しがつくわけではないから、なんの気兼ねもなしに自分の仕事の進捗状況にあわせて事務所に出て行った。それでも管理側にいわせれば、電気を使うだけ余計だということになるのかもしれない。
 鶴見線の駅名についてはウィッキペディアにも書かれているけれど、多くは人名が基になって命名されている。そもそもこの沿線は埋め立て地で工業を興そうと資本を投下した当時の実業家の名前が基になっている。鶴見小野は大地主の小野信行の名前から来ているし、「浅野」は子安にある浅野学園や、かつてこの近辺に存在した浅野造船所を興した浅野總一郎の名前からとったものだ。浅野總一郎は富山出身で薪炭の商いからコークス、セメントと手を広げ、造船、製鉄へと延ばした。その過程で大川平三郎安田善次郎につながり、それで鶴見線の駅名に大川や安善が残っている。日本鋼管の創業者の一人である白石元治郎の名前は武蔵白石となって残っている。「しらいし」ではなくて「しろいし」と読むのは彼の名字がそう読むものだったからである。
 弁天橋の周りに鉄鋼会社があると書いている人もいるけれど、実際には日本鋼管という会社はあったが、元々は鶴見造船製鉄の造船部門があったところで、製鉄所があったことはない。
 浅野總一郎は東洋汽船も興しているが、その延長線上で、横浜造船所というものを1916年(大正5年)に興した。とにかくなんでも手を染める。これが浅野造船所と名を変え、浅野製鉄と合併し、今の東神奈川の先にある高層マンション群のところに浅野ドックを開設したのが関東大震災の直前である。操業開始直後に震災で被害を受けたことは社史に記載されている。1936年(昭和11年)には浅野造船所を鶴見製鉄造船と名前を変えたが1940年(昭和15年)には日本鋼管に合併された。
 私のオヤジは昭和11年、「大学は出たけれど・・」の不況のまっただ中に浅野造船所に奉職したのだそうで、最初に担当した船は曳船だったそうだ。その船の写真を後生大事にアルバムに貼っていた。あのアルバムも実家を引き倒した時に捨ててしまった。さぞかしあっちで恨んでいるだろう。
 その後この浅野ドックはすぐに日本鋼管に吸収されてしまったけれど、それでもいつまでも「浅野船渠-浅野ドック-ASANO DOCK」として業界にはその名前で通していた。日本鋼管という名前よりも業界では通っていたと、随分自慢げだった。
 このドックははじめて南極へ行った「宗谷」(こちら)を砕氷艦への改造する工事を担当した。砕氷艦といっても何しろ今から考えると小さな船で、今は三菱重工長崎造船所香焼工場になっている場所にあった川南工業で戦前1938年に建造された耐氷型貨物船だったということは良く知られている。これが戦争をくぐり抜け、戦後灯台補給船として1957年の映画「喜びも悲しみも幾歳月」にも登場したというが私は映画はもちろん見たものの全く覚えていない。若山彰が唄う「喜びも悲しみも幾歳月」を聞く度に(といっても今やもうほとんど聴くこともないけれど)あの映画を思い出す。

 南極観測船としての改造が浅野ドックで行うことに決まったのは1956年に入ってからのことで(ということは映画が撮影されたのはいったい何時なんだろう?)、どうもその辺の記録を読むと、相当に時間が足りなかったようでほぼ突貫工事だったと書いてある。なにしろ3月12日に始めた改造工事はその年の秋には出港しなくてはならなかったからだ。当時の海上保安庁船舶技術部長は水品政雄だったそうで、その息子が日本鋼管にいたはずだ。
 私は当時小学校の2年生か3年生で、雨あがりだったか、浅野ドックへその宗谷を見に行ったことがあるのだけれど、それがはじめて南極へ行く前だったのか、ソ連のオビ号に救出されて帰ってきて、修理が終わった翌年のことだったのか、良く思い出せていない。とにかくモノクロの絵はがきが残っていて、その横にヘタックソな字でなにか書いてある。
 このドックでは平成元年2月16日に入渠したばかりのインドの貨物船、ジャグ・ドゥートから火災が発生し、乗組員2人及び作業員等10人が死亡し、乗組員8人及び作業員3人が負傷するという大惨事が発生した。この事故の詳細はこちらで見ることができる。
 この事故がきっかけとなって、日本鋼管の社内ではその主力である製鉄部門からはそれでなくてもお荷物の造船部門にはまだこんな危険な部署があるのかと非難囂々。とうとう浅野ドックはお取りつぶしになり、跡地は開発業者に売り飛ばされ、今はコットンハーバー地区という都会の孤島のような場所になっている。多分あそこに住んでいる人たちのほとんどは知らないだろうけれど、元のドックのゲート付近に浅野ドックがあったという痕跡の碑があったはずだ。ドックの入り口近くにあったごま油の「岩井の胡麻油株式会社」も2005(平成17)年に移転して新しい工場になっているそうだ。浅野ドックに行く時はいつもごま油の匂いがしていたことを思い出す。あの事故からもう26年が経った。あっという間の時間の流れでありながら、今でもあの二日間のことはどうしても忘れられない。
 話はとんでもないところまで広がってしまった。