ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

女子挺身隊

 身を挺して敵と戦う、というわけでそう呼ばれていたんですね。幼い頃に見た映画に出てきたことを覚えています。
 ある意味では、今言われている「慰安婦」という役割を果たさせられた人たちもそんな呼ばれ方をしていたことがあります。もうそれだけで姑息な言い換えがされていたことがわかります。敗戦直後に、進駐軍のために組織されたものも「特殊慰安施設協会」と呼ばれて意味が俄には判断できない名前でしたね、そういえば。
 朝日新聞の植村という記者が強制連行された慰安婦の目撃者とされた吉田某の証言が嘘だったとしてさんざんな目に遭わされたことは記憶の中に残っています。植村記者は朝日新聞誤報だった、と認め、撤回としたことによって、日本会議を初めとする歴史修正主義者やら、人の尻に乗って刀を振り回す、ちまたの付和雷同ネット右翼によって、当時教員として在籍していた北星学園大学の非常勤講師の職を追われるに至りました。しかし、その時の大学当局の毅然とした態度には感銘を受けました。
 植村元記者は来春には韓国のカトリック大学校の客員教授に就任するという記事をどこかで読んで、韓国で日本語の授業をやるのかと不思議に思っていたら、どうやら彼は韓国語も理解できるらしいのに、驚きました。
 それがどうしてわかったのかというと、こちらの記事を読んだからです。
 「韓国語ができ、韓国の留学経験もある韓国の専門家」だというのです。そうだったのかとあまりにも雰囲気に押されてちゃんと知らなかったことに気づかされました。
 その上に、この記事によって1993年8月31日付の産経新聞大阪本社版に掲載された記事というものがあることを知りました。

〈太平洋戦争が始まった1941(昭和16)年ごろ、金さんは日本軍の目を逃れるため、養父と義姉の3人で暮らしていた中国・北京で強制連行された。17歳の時だ。食堂で食事をしようとした3人に、長い刀を背負った日本人将校が近づいた。「お前たちは朝鮮人か。スパイだろう」。そう言って、まず養父を連行。金さんらを無理やり軍用トラックに押し込んで一晩中、車を走らせた〉。

 つまり、強制連行された、と産経新聞が書いているというのです。そして産経新聞自身が「8月4日付の紙面で〈「強制連行」「挺身隊」本紙も過去に使用〉とこっそり記事を載せている」という。
 なんだ、つまらんオチがついている。今でもほとんどの人たちは、朝日はひどい、慰安婦強制連行はでっち上げだ!とだけ記憶している。
 慰安婦問題について私に「勉強しろ」といった人がいたけれど、あんたこそ勉強足んないよ、といえるが、それをいうにはこの記事を知らなかった私も反省だな。
 産経新聞web版に掲載された、産経新聞阿比留瑠比編集委員と外信部の原川貴郎記者による植村隆氏のインタビューはこちら