ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

「朝まで・・・」

 途中から。

  • 「日本の平均給与は世界の中でも高い方だ」というトピックは今日のテーマである「格差拡大!雇用崩壊!あなたは生き残れるか?」に対しては全く意味を持たない。
  • 格差を問題視するのであれば、大学のアカデミックポストをそのままにして議論するな、放送局の現場をそのままにして議論をするなという田原の発言は正しい。正しいけれど、だからここで森永が格差を問題視することを許さないという論理は全く違う。実際の話私立の大学に於ける職員がどんどんアルバイトを含む非正規職員に置き換わっていることは、アカデミックポストにある人たちの間の格差もさることながら大きい問題であることは確かであるけれど。
  • 今日の議論の中でずっと気になるのは「失業率の横並び議論」である。計算するためのそれぞれの定義が違うことを指摘しておかなくてはならない。
  • 「年収200万円以下という層には家庭の主婦が相当数入っている」という大村の発言をそのままスルーしてはならない。こうした漠然とした想定でミクロな議論するのはおかしい。パートでなくては働くことのできない人、パートでなくては採用されないという状況というものが現実に存在することを確認していかなくてはならない。オランダで実施されたワーク・シェアがどの様に実施されたかという点について、どうしてもっと語られないのだろうか。あ、ようやく森永がそれを語った。
  • 田原の独善性をみるともうこの人の賞味期間は完全にもう終わっているな。
  • 「大卒の新卒なんてものは金がかかって手間がかかる奴なんて本当は企業は欲しくないんだよ」という堀のいい方はあまりにもお粗末。あまりにも無責任。そうした労働者を求めてきたのは企業の側だったことを否定できるはずがない。
  • あからさまに企業のために奉仕する姿を肯定する施策を変えていかない限りは根本的な解決は図られることはない。
  • 規制緩和に反対ということは経済成長に反対ということだな」と大村が森永に言う。全ての問題はここにある様な気がする。規制緩和をしなくては経済成長はできなかったというのが大村の論理だ。その結果が論議になっている現在なのではなかったか。この際、竹中をこの場に連れてきたら?
  • かつては職種に限らず仕事がなかったものが職種を選択しないのであれば仕事に就ける様になっただけでも前よりは良くなったんだという片山の主張はまさに詭弁以外の何ものでもない。とにかく仕事に就けるんだから文句をいうな、という立場に彼女は立つ。
  • ついに田原は森永を「偏見の持ち主」といってしまった。
  • 今や国立大学の学費は私立大学とほとんど変わらないことを知らないのかもなぁ。
  • 1番の人間と100番の人間とがどうしてもできちゃう。これはどうするのか?なんて質問をしても意味がないだろう。

田原があまりにもくだらないからもう見ない。

  • 日本の社会保障制度は逆累進化であると指摘した森永の声をCMでかき消してしまった。あ、やっぱり最後まで声だけだけれどもフォローしてしまった。

感覚

 今年は暖冬である。これはかなり明白である。確かに昨年は寒かった。こうして別にエビデンスがどうのこうのということなく語ることができるのは本当に気が楽だ。これが後20年ほども経つと、「2006-7の冬はその前年に比べて大層暖かく」という時にその前年の冬の温度、日照時間、寒気団の動きについての気象庁のデーター、あるいは気象庁の発表データーなんてものを引き合いに出さなくては語れないんだろうなぁと思うと、あぁ面倒だ。(エビデンスを要求するのは税金を使って、あるいは人から集めた金を遣って何かをする時ぐらいにならないものかねぇ。と、いいつつ、他人が何かいったらいいかえしてやるのである「どんな根拠があってそんなことをいっているんだ、根拠を示せ、根拠を!」と。)
 ところが私は感覚的に今年はとても暖冬という雰囲気ではないのだ。いつでも二の腕に肌寒さを感じていて何かを片づけたり動かしたりする気力が起きないほどの薄ら寒さをいつも抱えている。これが何のかととても不思議だった。そこで思い至ったのは多分昨年までは少しずつその時間数は減っていたものの定期的に出かけなくてはならない用事があり、場所があったということなのだ。外に出て歩く、急ぐ、人と会話をする、他人の手前格好をつける、という行為は人間の血液循環にとても良いことだということだろう。今年の冬が物心ついてから初めてどこにも行かなくて良い冬なのだ。そうはいっても朝何時に起きても誰も文句をいわないというのはとても快適でやはり一度やり始めたらやめられないのは致し方なかろう。怠惰というものは実に甘美なのだなぁ。いっちゃあ悪いがその辺のくちばしのまだまだ青い奴に意見されるくらいだったらこのままグズグズといぎたなく怠惰な日だまりに寝っ転がっていたい、という感覚を分からないではないのである。
午後からのシンポジウムに参加しようと思っていたが、結局家から出ずにクリーム・シチューをつくったり書籍の整理、はたまた古い本の拾い読みなんぞをしていた。先日近所の図書館から借り出して気に入った「アメリカ人ならだれでも知っている英語フレーズ4000」(小学館 2005)とかねて欲しいと思っていた「アメリカ国家反逆罪」下嶋哲朗 講談社 1993がアマゾン日本とアマゾンを通しての高原書店から到着。後者は米国国家反逆罪に問われた川北友彌についての著作であるが戦後史の中に埋もれた話を時間をかけて掘り出したものである。この中に出てくる楢橋渡について書かれた本を探してみようか。高原書店から送られてきたこの本は表紙に多少の汚れはあるが、全く開かれた形跡のない新品である。
 午後4時過ぎの地震地震過敏症ともいわれる私でなくては感じ取れないくらいのものだったけれど、わずかでありながら「ドン」と下から突き上げるものを感じた。それで「あれ!今のはなんだ?」といったのだけれども、連れあいは全く分からなかったらしい。居間のテーブルの上に吊してある電気の傘がわずかに揺れて地震と知れた。他のことには一切鈍感なのにもかかわらず、私は地震だけには実に過敏である。

タウンミーティング

 なんだか今更かよ!といわれそうだけれどもこちら経由にてこんな記事を見つけた。いつもの様にすぐなくなってしまう新聞記事なので、引用しておく。

TM抽選 国・京都市を提訴へ 落選の市民ら Asahi.com 2007年01月18日
2005年11月に京都市で開かれた内閣府主催のタウンミーティングで特定の応募者が落選させられた問題で、不正な抽選で人権を侵害されたとして、落選した京都や大阪の市民4人が週明けにも、国と同市に損害賠償を求める訴訟を京都地裁に起こす。一連のタウン・ミーティング問題で、民事訴訟に発展するのは初めて。
 このタウン・ミーティングは「文化力親子タウン・ミーティング・イン京都」。共催した同市教委の担当者が、参加者の抽選段階で過去に市主催の行事で進行を妨げたとされる人やその関係者2組の応募を見つけ、内閣府に連絡。内閣府が2組の受け付け番号の末尾数字を落選番号にして抽選したため、2組や同じ末尾数字の約50人が落選した。市教委は関係者を特定した経緯を明らかにしていない。
 原告になる4人は意図的に落選させられた京都市の女性(52)ら2人と、巻き添えで落選した2人。この女性は2組の個人情報を無断で調べたのはプライバシーの侵害だと主張。不正な抽選で参加機会を閉ざされたのは人権侵害だとして、タウン・ミーティングを開いた国と同市に慰謝料など原告1人あたり150万〜200万円の損害賠償を求める。
 女性は「異なる言論、思想を封殺するやり方は大きな問題がある。どうやってプライバシーを調べたのかなど事実を知りたい」と話している。
 同市教委の担当者は取材に対し「安全性を確保するため、客観的な事実を内閣府に伝えた。訴訟になることがあれば、誠意をもって説明し、理解を求めたい」と話した。

 聞くところによると京都市教育委員会の委員長は教育再生会議のメンバーだとか。なんとも情けない気持ちにさせられる。「小賢しい」とか「小役人根性」とかいうとこれは差別的表現といわれることになりかねないか。近視眼的といっても難しいだろうか。本来的に考えなくてはならないことからはずれた場面でやたらと細かい神経を使うという才能を発揮する人間は確かにいる。