ほぼ足りてまだ欲 その先

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感覚

 今年は暖冬である。これはかなり明白である。確かに昨年は寒かった。こうして別にエビデンスがどうのこうのということなく語ることができるのは本当に気が楽だ。これが後20年ほども経つと、「2006-7の冬はその前年に比べて大層暖かく」という時にその前年の冬の温度、日照時間、寒気団の動きについての気象庁のデーター、あるいは気象庁の発表データーなんてものを引き合いに出さなくては語れないんだろうなぁと思うと、あぁ面倒だ。(エビデンスを要求するのは税金を使って、あるいは人から集めた金を遣って何かをする時ぐらいにならないものかねぇ。と、いいつつ、他人が何かいったらいいかえしてやるのである「どんな根拠があってそんなことをいっているんだ、根拠を示せ、根拠を!」と。)
 ところが私は感覚的に今年はとても暖冬という雰囲気ではないのだ。いつでも二の腕に肌寒さを感じていて何かを片づけたり動かしたりする気力が起きないほどの薄ら寒さをいつも抱えている。これが何のかととても不思議だった。そこで思い至ったのは多分昨年までは少しずつその時間数は減っていたものの定期的に出かけなくてはならない用事があり、場所があったということなのだ。外に出て歩く、急ぐ、人と会話をする、他人の手前格好をつける、という行為は人間の血液循環にとても良いことだということだろう。今年の冬が物心ついてから初めてどこにも行かなくて良い冬なのだ。そうはいっても朝何時に起きても誰も文句をいわないというのはとても快適でやはり一度やり始めたらやめられないのは致し方なかろう。怠惰というものは実に甘美なのだなぁ。いっちゃあ悪いがその辺のくちばしのまだまだ青い奴に意見されるくらいだったらこのままグズグズといぎたなく怠惰な日だまりに寝っ転がっていたい、という感覚を分からないではないのである。
午後からのシンポジウムに参加しようと思っていたが、結局家から出ずにクリーム・シチューをつくったり書籍の整理、はたまた古い本の拾い読みなんぞをしていた。先日近所の図書館から借り出して気に入った「アメリカ人ならだれでも知っている英語フレーズ4000」(小学館 2005)とかねて欲しいと思っていた「アメリカ国家反逆罪」下嶋哲朗 講談社 1993がアマゾン日本とアマゾンを通しての高原書店から到着。後者は米国国家反逆罪に問われた川北友彌についての著作であるが戦後史の中に埋もれた話を時間をかけて掘り出したものである。この中に出てくる楢橋渡について書かれた本を探してみようか。高原書店から送られてきたこの本は表紙に多少の汚れはあるが、全く開かれた形跡のない新品である。
 午後4時過ぎの地震地震過敏症ともいわれる私でなくては感じ取れないくらいのものだったけれど、わずかでありながら「ドン」と下から突き上げるものを感じた。それで「あれ!今のはなんだ?」といったのだけれども、連れあいは全く分からなかったらしい。居間のテーブルの上に吊してある電気の傘がわずかに揺れて地震と知れた。他のことには一切鈍感なのにもかかわらず、私は地震だけには実に過敏である。