ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

東京マラソン

 朝起きると窓から見える景色は寒々とした雨に煙る東京である。同じ集合住宅に住む方も今日のマラソンに出ると云っておられたけれど、憂鬱じゃないんだろうか。私のように走ることにかけては全くだめな奴にとってはこんな日は全く外に出る気になれない。あ、出る気がないのはこんな日だけじゃないけれど。昨日の練習でごく簡単に一曲引き受けてしまったけれど、こんな早口、私には無理ってぇもんだ。
 雷門前で油谷の苦しそうな顔。この寒さ、この雨ではあまりにも過酷。良く帽子も被らずにこんな条件下で走ることができるものだとびっくりする。それにしてもこのテレビ中継はコマーシャルが多いような気がするけれど、そんなこたぁないのか。
 公式サイトに繋げようとするが、ほとんど繋がらない。みんな見ているのだろうか。なんとゼッケン番号、あるいはランナーの姓名を入れるとその人のラップタイムがアップされる!全然知らない人のゼッケン番号を適当に入れてみるとちゃんと出るぞ!「11123」の男性ランナーは12時33分40秒に30kmを通過しておられる。フジテレビのサイトでは時間ごとのゴールシーンが公開されている。3時間10分〜21分のところで伴走者と一緒に入ってこられた方を見た。現地でのアナウンスが入っている。
 テレビ朝日の昼のニュースではスタート地点に放棄された衣類、ペットボトル、雨傘が山のように重なっていた。この天候ではスタートを待つのは苦しかったのだろう。なにしろスタートの合図から最後尾がスタートラインを渡るまで20分かかったといっていた。しかも、荷物預けの〆切が午前8時なんだから最後尾が走り出すまでには1時間半ほど寒さを耐えていなくてはならなかったということだから無理もない。それでも完走した人たちの充実感は気持ちの良いものだろう。しばらくはこの話題がそこら中で語られるのだろう。ゴールをして振り返り帽子を取って深々とお辞儀をする人が何人もいる。このメンタリティーはとても興味深い。

Under the table

 こんな記事を発見。

“「わいろは必要経費」アジアビジネス 九電工捜索” 朝日新聞2007年02月17日11時14分
 九電グループ九電工(本社・福岡市)が、福岡地検から家宅捜索を受けていた。容疑は不正競争防止法違反(外国公務員への不正利益供与)。フィリピンの政府関係者に、自動指紋照合システムの営業活動に絡み、わいろを渡した疑いが持たれている模様だ。成長するアジアビジネス。一方で、わいろ文化も根強く、制度や組織よりも「個人」の意向やコネが影響力を持っているという。

 こうした「袖の下(under the table)」は途上国のプロジェクトではほぼ当然の如く語られていたことを思い出す。今でも変わっていないんだろうとは思う。特にフィリピンの場合にはかつての賠償供与のプロジェクトのなかで多くのその種のものが出回っていた。私が聴いたのはマルコスの時代である。「マルコス・マネー」と呼ばれていた。現地の代理店を起用してその筋にちゃんと到達してちゃんと機能するべきルートを握っているのはいったいどこの代理店なのか、そしてその代理店をつかんでいるのはどの商社なのか。旧財閥系の大商社はこうした仕組みの中に自らの手を突っ込むのは良しとしない。そこでこのルートを得意としている商社の出番になる。それは当然なことだった。彼らのパンフレットを見せてもらうとそこに映っていたのは、そうした政府系資金で彼の国に売り込んだ様々なプロジェクト。救急車、消防車まであった。
 台湾でも、インドネシアでも政府系の仕事、あるいは政府間借款のプロジェクトでは常にそうしたルートをつかむことが重要なことであった。次に権力を握るのはどのルートなのか、そしてそのルートをつかんでいるエージェントはどこなのかをみんな競っていたことは誰でもが知っている。そうして世界的企業は仕事をしてきた。今度のイラクの復興プロジェクトもそんなパターンのほんのひとつであることは明白だ。
 日常のなかでも、この種の話には事欠かなかった。当時インドネシアの入国審査の段階で「ぐじゃぐじゃしたらこれを出せば一発だ」といっていたのはなんと当時は100円ライターであった。こいつは出しそうだとむこうが思ったらなんとでもなるので、その時はそっと出せといっていたのを聴いたことがある。本当だったり、そうでなかったりはするけれど。なにしろ、日本から年末に送ったカレンダーの包みがとうとう工事事務所に着かなくて、そのうち町のバザールで売られているのを発見したという。それも現地の警察がいってきたというのだが、その警察は挙げ句の果てに、「もう少し金を出せばもっと見つかると思う」といったんだとか。この辺の細かい金はそうした公務員のアルバイト的なものでもある。なぜかといえば昼間の、つまり表の仕事だけではとても暮らしていけなかった。だから、昼間は警官夜はタクシー運転手という類の人がそれだけいたのだそうだ。
 「バクシーシ!」と叫ぶこどもに与えることは止めて下さい、といわれてもつい出してしまうのが日本人だ、とよく云われていたけれど、実は日本人だけじゃない。そこが「必要経費だ!」という理由になっているのだろう。本当の解決策というのはいったいあるのだろうか、あるのだとしたらそれはなんだろうか。

思い出話ー図書館

 私が図書館を利用した最初は一体いつでどこなのかと思った。小学校には図書室という、普通の教室に書棚が入ったものがあったのだけれど、多分それを利用しだしたのは三つ目の小学校、つまり私が6年生の時のことだと思う。実は茫洋とした想い出なのだけれども、木造校舎の一階の暗い部屋だったような気がする。いったい何を借り出していたのか、何を見ていたのかほとんどはっきりしない。きちんと記憶が蘇るのは高校に入ってからなのではないかという気がする。当時、図書館といえば貸し出しカードなるものがほんの後ろに入っていて、それと同時に個人カードというものがあったと思う。その個人カードの欄をどれほどの期間で書きつぶし、年間に何枚までそのカードを作るかということに邁進していた記憶がある。あのカードは表裏に欄が印刷してあったので、全部でいくつ記入ができたのかは知らないが、二枚目に移るのにも結構借り出せたという記憶がある。そして、大学に入ってからはなんということか、ほとんど図書館を利用した記憶がない。つまりほとんど勉強していないということである。社会人になってからはさまざまな法的知識を得なくてはならなかったり、マーケッティングの一環としての資料を捜して社内の資料室を漁ったり、国会図書館まで足を運んだりした記憶がある。
 転勤で外地に赴任したときにはやっぱり資料さがしに州立の図書館に通ったこともあったが、豪州では国の機関が定期的に発表している各種データーがあって、それを見に良く通った。もう一度入り直した大学の図書館はこれは実に使い手があってほぼ午後から夜にかけては入り浸っていた。ここではまず学校に入ったらイヤでも図書館を使わなくては何も進まないという状況を創り出してあった。本当の意味でリファレンスが機能している図書館だった。さぞかし、図書館で働いておられる方々にとっても真剣勝負を迫られる良い図書館だったのではないかと思う。ただ、あの図書館のOPACだけは表示が時代遅れで見にくかった。多分他の大学の図書館に比べて早くから構築されていたOPACだったんだけれども、それが禍してなかなか改訂できなかったのではないかと邪推する。その後学校を変わったのだけれども、その後の学校の図書館はハナから学生はろくなことをしない、というスタンスの上に立ったシステムを構築していたので、なんとも使いにくい気持ちにさせられたことを覚えている。それくらい、その前の大学の図書館は使えるものだった。とにかく学ぼう、研究しようという気持ちを充分に満たしてくれる。できればあんな図書館の中に部屋を借りて暮らしたいと思うくらいなんである。
 天井クロスの張り替え作業は下地処理が完了。パテの乾燥を待ち、明日最後のクロス貼りを実施する。
 友人のところに何人か集まっているからと電話あり。つまみと酒を持っていく。仲間の悩みを聴く。ビートルズ・マニアの友人からビートルズ音楽のデジタル化についての現況を聴く。イヤ、よく知っていること!