ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

朋あり

 15年前までやっていたグループの引退者の親睦会というなんだかスタンスの見付け所がなかなか難しい呑み会だった。みんなは先月末のバザーの手伝いをしたのでそのお疲れさん会なんだけれど、私はその時何もしないでただ呑んでいただけだったから、そういういい方をすれば「呑み疲れお疲れさん会」だった。畳の座敷の呑み会だったから家に帰って膝と股関節が痛い。どうも苦手なんだなぁ。畳ってのは寝っ転がるにはとっても快適なんだけれどね。今週は呑み会でしか家を出ていないな。

エコポイント エコカー減税

 なんだかんだといってもお金がなくちゃなんの関係も縁もないんだね、これは。
 エコポイントってのも来年の3月までらしいし、自動車販売店の大きな広告を見ていると、あれもこれもみんなエコカー減税の何らかの絡みがあるみたいで、結局自動車産業前倒し需要創世対策、ッてことなのか、これは。

揺れる 参加する

地震だっ!と 叫べどホンの ちょっと揺れ」
「すぐ返す 真剣な眼に 心揺れ」
「父の日は 何が欲しいの? こころ揺れ」
「父の日は おまけなんです 母の日の」(テーマに関係なし)
「父の日に 感謝されるほど なにもせず」(これまたテーマに関係がないなぁ)
「父の日が 夫の日でなくて ほっとする」(あ、路線がどんどんこっちにきているなぁ。)
「役員会 打ち上げのところだけ 参加する」
「大掃除 命令だけは 父参加」

ラジオ深夜便 こころの時代

 どうやら体内時計がずれまくってきているようで、明け方まで眠れない状況が一週間ほど続いてしまっている。とうとうNHKラジオ深夜便の「心の時代」をイヤフォンを耳に突っ込みながら寝ようとしたらこれが興味深い話で結局最後までそれを聴いてしまった。
 敗者復活・「コヤシの思想」と題してご自身が夜間中学卒業生で、今年から立教大学大学院特任教授として若者たちと相対している高野雅夫の話だった。
 高野は現在69歳。生まれは満州で、敗戦で逃げてくる間に母親と離ればなれになったけれど、彼は捨てられたと思っていたというのだ。福岡で感動もなくナイフを振り回しまさに野良犬のように育ったという。たまたまそこから先に行く汽車がなかったから東京に降り立ち、流されるように山谷に行き、バタ屋の朝鮮から来たお爺さんに助けられて、ようやく自分の名前「たかのまさお」を書けるようになったときに、自分をようやく得たような気がしたんだそうだ。21歳の時、1961年に荒川九中の夜間中学に入ったという。夜間中学というのは本来的にはあり得ない学校なのだ。義務教育は受けさせてあげなくてはならないわけで、広く万民が正々堂々と昼間受けることのできる教育機関な筈だからだ。それでも現実にはそれが過去に受けられなかった、受けるような状況で暮らすことができなかった人は必ずいる。だから1968年に行政管理庁はこんな学校があってはならないのだと勧告をして問題になる。
 私がこの夜間中学の話を初めて聴いたのは多分この頃の話で、ぼーっと暮らしていた世の中の理不尽になにも気がつかなかった甘ちゃんだったわけで、先輩の妹さんが夜間中学で仕事をしていると聞いてようやくその問題点に気がついた程度だった。この年に高野雅夫は大阪に出向き、釜ヶ粼(現愛隣地区)に拠点を置きながら夜間中学の再生を訴えかけていたのだそうだ。なにしろ大阪府の全人口に相当する300万枚のビラを撒くまでやめられないと思ったというのだから相当な覚悟だ。その時に集まってきてくれた8人の仲間がまさに歴史を作った人たちなんだと彼は表現するのだけれど、丁度40年前の1969年6月5日に天王寺に夜間中学が開かれたときに80人を超える生徒が集まってきたという。
 「文字と文化を取り返す」という言葉はとても力強い。彼が憲法25条について語るとそれは概念的な権利についての話ではなくて、まさに目の前で潰されかかった命を繋ぐことができる権利を表現してあることに気づかされるばかりか、それが単なるきれい事の言葉の羅列と受け取られかねない時代の風潮に力強い竿を差していることを感じる。
 「おれはあのままだったら世の中を恨んで人を殺すなんてことまでやったかも知れない」という高野の言葉と、文字を知ること(彼は取り返すと表現するけれど)によって取り返すことのできた「人間」の力はただただそれだけで大きな力となる。与えられたのではない、自分で手に入れた力というのはこういうことを云うのだなぁとしみじみ感じ入ってしまった。