ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

鳩山由紀夫のエッセー

 どうやらThe New York Timesの先月26日のopinion欄に掲載された鳩山由紀夫のエッセーが米国で騒がれていると、日本のメディアが騒いでいらしい。タイトルが「A New Path for Japan」というものになっていて、最後に「longer versionは日本の月刊誌“Voice”の9月号に掲載されたものである」と書いてある。
 その雑誌は何かというとPHPが出版している「Voice+(ボイスプラス)」のことでこっちはネット上で読むことができる。
 原題は「祖父・一郎に学んだ「友愛」という戦いの旗印」というもので、冒頭は彼が掲げる「友愛」がどこから来ているのかという話になっていてオーストリア貴族と麻布の骨董商の娘青山光子の次男として生まれたクーデンホフ・カレルギーの著書を鳩山一郎が翻訳した時に英語で言うところのfraternityを「友愛」と翻訳したところから始まっているのだという説明になっている。

 「自由」や「平等」が時代環境とともにその表現と内容を進化させていくように、人間の尊厳を希求する「友愛」もまた時代環境とともに進化していく。私は、カレルギーや祖父一郎が対峙した全体主義国家の終焉を見た当時、「友愛」を「自立と共生の原理」と再定義したのである。

 道義と節度を喪失した金融資本主義、市場至上主義にいかにして歯止めをかけ、国民経済と国民生活を守っていくか。それがいまわれわれに突き付けられている課題である。

 現時点においては、「友愛」は、グローバル化する現代資本主義の行き過ぎを正し、伝統のなかで培われてきた国民経済との調整をめざす理念といえよう。それは、市場至上主義から国民の生活や安全を守る政策に転換し、共生の経済社会を建設することを意味する。

 いうまでもなく、今回の世界経済危機は、冷戦終焉後アメリカが推し進めてきた市場原理主義、金融資本主義の破綻によってもたらされたものである。

 「友愛」が導くもう一つの国家目標は「東アジア共同体」の創造であろう。もちろん、日米安保体制は、今後も日本外交の基軸でありつづけるし、それは紛れもなく重要な日本外交の柱である。同時にわれわれは、アジアに位置する国家としてのアイデンティティを忘れてはならないだろう。経済成長の活力に溢れ、ますます緊密に結びつきつつある東アジア地域を、わが国が生きていく基本的な生活空間と捉えて、この地域に安定した経済協力と安全保障の枠組みを創る努力を続けなくてはならない。

 今回のアメリカの金融危機は、多くの人に、アメリカ一極時代の終焉を予感させ、またドル基軸通貨体制の永続性への懸念を抱かせずにはおかなかった。私も、イラク戦争の失敗と金融危機によってアメリカ主導のグローバリズムの時代は終焉し、世界はアメリカ一極支配の時代から多極化の時代に向かうだろうと感じている。しかし、いまのところアメリカに代わる覇権国家は見当たらないし、ドルに代わる基軸通貨も見当たらない。一極時代から多極時代に移るとしても、そのイメージは曖昧であり、新しい世界の政治と経済の姿がはっきり見えないことがわれわれを不安にしている。それがいま私たちが直面している危機の本質ではないか。

 ざっと引用した限りでは「アメリカのメディアがこうして騒いでいるぞ、これでわれわれは長年にわたる同盟国であるアメリカの機嫌を損ねるのではないのか、大変だ、大変だ!」と騒いでいるとも思える日本のメディアの対応はあまりにもお粗末ではないだろうかと思える。なんだかまるで占領期間中のGHQの機嫌を損ねちゃならないぞ、という風潮を思い出しそうになる。

 むしろ、この未曾有の経済危機をどのように捉え、地域性を無視して地球全部を一体の経済政策の中に陥れ、市場至上主義で勝ったものがイニシアティブをふるうという傾向は如何かという指摘をしているという意味では、fraternityという概念を根底に持つことの意味合いは理解されて良いと思う。
 世の中はそんなに甘いものではないのであって、競争に勝って初めて意味を持つ。国の経済を司る企業が負けて疲弊していく状況となるのであれば、企業はさっさと国を出て行き、fraternityがどうのこうのという前に国が疲弊してしまうんだぞという脅しによってその国が存在する根底となる国民を脅し続ける政策の方がよいのか、そしてそうした哲学に基づく国際関係の方がよいのか、という論理の方がよいのだとしたら、この国の有権者はなにゆえこんな選択をしたというのだろうか。

 一度、こちらに掲載されている原典に目を通されることをお奨めする。

 また、The New York Timesに掲載された英文抄訳はいつまで残っているのか知らないが、こちらで読むことができる。

 ちなみに「VOICE+」の9月号には港区の某有名私大の先生が「郵政見直しが招く大損害」という記事を書いておられる。民の力を得ずして郵便局の改革はできない、株主による経営の監視なくしては経営の近代化はできないと力説されている。突っ込みどころ満載。読みながら彼の声と口調に頭の中で置き換えられるとよりいっそう臨場感が増す。

台風一過

 本当に台風一過だなぁと思ったのはずいぶん久しぶりのような気がする。本当に今日は暑かった。出かけようかと思っていたんだけれど、さすがに暑くて、どこかに入ると冷房との差でまた気持ち悪くなってしまうのかと思うとそれがいやなばかりに逡巡してしまった。
 見たい映画がそろそろ終わりそうのような気がして、多少焦っている。

媒体のバイアス

産経新聞の記者が公式「twitter」上でつぶやいた軽率な発言が「報道機関としての中立性はないのか」と批判を浴び、2009年8月31日、同社は謝罪した。
選挙特集が終わることを告げたあと、「産経新聞が初めて下野なう」「でも、民主党さんの思うとおりにはさせないぜ。これからが、産経新聞の真価を発揮するところ」と投稿。
「軽率な発言だったと反省しています。ご不快の念を抱かれた方には、お詫び申し上げます」と謝罪。「新政権を担う民主党に対し、これまで自民党政権に対してもそうであったように、是々非々の立場でのぞみたいという意思表示のつもりでした」と釈明した。(8月31日20時45分配信 J-CASTニュース

 思わず大笑い。フジサンケイ系が「これまでも自民党政権に対してそうであったように是々非々の立場・・・・」というところでもう決定的に大笑い。
 中立を装ってもどうせそんなことできないんだし、そんなことをするわけもないんだし、誰も君たちが中立なスタンスでやっていくだろうとは思っていやしないって。読売新聞-日テレも、朝日新聞-テレ朝だって、やっぱりどっちかにどうにかなっている。ましてや扶桑社を抱え、チャンネル桜御用達のような立場にいる人たちが中心人物である媒体を雑誌でも続けていれば、私有財産を徹底的に利権がらみで守ってくれる人たちがつきあってくれるという程度の思想で作られているんだということは、誰も彼もがわかっているから安心してくれて良いんじゃないのかな。

9月1日といえば

まずは関東大震災である。

 あれからもう86年も経つからもう覚えている人もとても少ないんだろう。私が知ることができるのはもう書物かテレビで流されるほんのわずかの限られた映像でしか窺い知ることはできない。当時は当然のことながら建物でも3階以上のものは大変に限られていたけれど、いかんせん火災は激しいものだったようだし、近年の地震被害を見ても、重たい瓦屋根で潰れていた家々の累々たる惨状は忘れられない。
 霞ヶ関ビルが建つまで東京都内にも10階を超えるようなビルは殆どなかった。この国では何しろ地震があるんだからそんな高いビルを建てるわけにはいかないんだというのが常識だったし、既成概念として存在していたから、米国に遊びに行ってみるとNew Yorkを初めとして中心街には空を見上げる高いビルが当たり前のようにそびえていて、今から考えてみると欧州でカソリックの教会がおどろおどろしいほどの圧倒的な規模でそびえたつのと同じように、米国の巨大な力を見せつけられるような気がしたものだった。
 それが柔構造の考えが普遍的になってきてからというもの、東京のあっちにもこっちにも何十階というビルが当たり前のようににょきにょき伸びてきて、住宅だって30階を超えるような建物を官庁が平気で建築許可を出すようになってきている。そんなものが隣に建ってしまったら圧迫感で気持ち悪くなりそうだといったって、そんなことは地域住民のエゴでしかないとあっさりと葬り去られてしまうのである。
 こんなビルをあちこちに建てたりして本当に大丈夫なのか?という疑問は常に頭から離れない。あんなガラス張りの、しかも30階にも及ぶビルをこんな地震大国に建ててしまって、本当に大丈夫なのか?という疑問を持つ人がいないはずがないと思う。でも、ごく平然と暮らしている。そのビルの建設現場には必ず2-3本のクレーンが建っている。建設工事中に地震が来たら大変なことになるから、そのクレーンも欧州の建設現場で使っていたようなシステムでは危なっかしいので日本国内ではなかなか許可にならなかったのだけれど、最近では現場に通りかかってみるとずいぶんシンプルなクレーンが稼働しているような気がする。あれで本当に大丈夫なのか?
 高層ビルの話にしてもその建設用クレーンにしても、本当に大丈夫なのだろうか。いやいや、大きな地震が来たらあっちもこっちも崩れてしまうんだろうけれど、その時に崩れるのはうちがやったビルだけじゃないからそんなに問題にはならないだろう、というところなんだろうか。それとも建築許可を下ろした役所は建前からいっても絶対に大丈夫なんだとそれでも主張するのだろうか。あるいは本当に(というのは変だけれど)大丈夫なのだろうか。

そして9月1日といえば新学期。

 私は計画的に生活を組み立てることのできるタイプの人間ではない。そんな性格というのはここ最近急に醸成されたものなんかではなくて、おぎゃぁと生まれ落ちた時から明らかに持って生まれてきたんだと思わざるをえないものなんである。なにしろ小学校に入った時から私が常に担任の四宮先生から毎日聴かれていたのは「忘れ物はないか」という言葉だった。学校に行くためには、あるいは家に帰るのには、まず何をしなくてはならないのかという計画が立てられない。その場でばたばたとやることによって周りを巻き込みどうにかして乗り切ってきた。
 それはいつまでも変わらないわけで、それは今でもそのまま続いている。だから当然夏休みの宿題というのは下手をすると8月31日の夜まで泣きながらやるということを毎年毎年繰り返してきた。普通の人はそれに懲りて翌年は気をつける。私はそういう向上心とか、懲りる、といういわゆる学習能力が著しく欠落している。
 夏休みの学習帳、絵日記、読書感想文、観察日記、ドリル、工作くらいのものだったような気がするけれど、最後の2日間くらいでその殆どを済ますのだからこれはちょっと容易ではない。だいたい工作なんてものはいつまで経っても状差しを作って持って行く。いったいいくつ作ろうってのか。5年生の時は泣きながら作り、これを焦がして束子で磨くなんていう小賢しいことをやったことを今でも忘れない。
 天気予報をさかのぼって調べるというのは大変だった。絵日記に書くわけだけれど、自分一人では25日前の天気と出来事を思い出すのは大変だ。だから、周りに聴く。「ねぇねぇ、あの日どこか行ったぁ〜?」 そんなにしょっちゅうどこかになんて行くわけがない。だからヨーちゃんのうちに遊びに行ったことにしたり、しげちゃんとワンバン三角ベースをやったりしたということにしてしまえばいいのだけれど、肝心の天気まで作るわけに行かないのだ。今だったらネットで全部調べられるというのに。
 ほんとーにあの頃、新学期はいやだった。

NHK放送予定

  • 9月4日(金) 午後4時00分 BShi 証言記録 兵士たちの戦争「インパール作戦 補給なき戦いに散った若者たち 〜京都 陸軍第15師団〜」 (再放送)
  • 9月6日(日)午後5:00〜午後6:00(60分)甦るビートルズThe Beatles Rebirth
  • 9月6日(日)午後10時00分〜11時00分教育テレビ ETV特集「キム・デジュン 激動の生涯とラストメッセージ
  • 9月7日(月)【6日深夜】午前0時40分〜2時10分 教育テレビ ETV特集・選「日本と朝鮮半島2000年(5)
  • 9月8日(火)【7日深夜】午前0時10分〜1時10分総合テレビ 再「日本海軍400時間の証言・第1回<開戦 “海軍あって国家なし”>」
  • 9月9日(水)【8日深夜】午前0時10分〜1時10分総合テレビ 再「日本海軍400時間の証言第2回<特攻 “やましき沈黙”>」
  • 9月28日(月)BS2前編 午後1:00〜後編 午後1:47〜「マリリン・モンロー 最後の告白 前・後編」