ほぼ足りてまだ欲 その先

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あれから8年経った

今年はあの地震の時にボランティアとして活動した何人もの人たちの話を聞いてきたので、ことさら身に沁みるような気がする。東遊園地では早朝から異例の集まりが開かれていたそうである。

あの朝、私は岡山にいた。前年末に急逝した女房のおふくろの本葬式を終えたのが、1月15日。やれやれと女房の実家に引き上げてきたところに私の実家から電話。母方のたった一人の従兄弟が死んだという。わずか51歳の市役所官吏であった。その従兄弟の母親、つまり私の叔母は糖尿で足が悪く、眼も見えにくくなっていた。その葬式を終えたのは16日であった。香典やらなんやらの始末もあって、泊まってから翌日に帰ることにしよう、滅多にここまで来やしないんだからと叔母さんと話しながら、まだそのままになっている葬式飾りの前に布団を敷いて、寝た。本当に久しぶりにこの家で寝た。
 小学校の頃、夏休みの間ずっとこの家に滞在していたこともある。おかげで、長ずるにおよんでも岡山弁のイントネーションも分かるようになったのだ。その従兄弟は彼が大学浪人の時にわが家に同居していたが、入学してからは一人で気楽に暮らしていたから、それから以降はほとんどまともに話し合った記憶がない。もっと話しておけば良かった・・。人が亡くなると何回もいつもそう思うのに、億劫で人に会うことに消極的になってきている。
 で、あの午前5時46分。玄関や廊下のガラス戸がガタガタいって揺れた。中国地方に地震は全くない、と確信していた私は一体何事かと飛び起き、地震と分かると同時に、いつものクセで、玄関扉を確保に走った。考えてみればあんな大きな一戸建ての家なんだから、ひしゃげてもどこからでも逃げられるだろうに、大学卒業以来この方集合住宅にしか住んだことのない私は習性として逃げ道確保のために玄関扉を開く。フレームがひしゃげたら、金輪際扉から出られなくなるからだ。仙台地震でそうして苦しんだ知人から聞いた知恵だった。
 関東の人間にしてみれば大した揺れではなかったが、岡山の人間にとってはとっても驚く出来事であったようだ。その時に気がついた。私は足の悪い叔母を放り出して出口確保に走ったわけである。悪い!悪い!と謝ったものの、叔母にとっては恐ろしかったらしい。いつものパターンですぐにNHKのテレビを付ける。早朝のことではあるがすぐに情報が飛び込んでくるかと思いきや、うつるのは支局の自動カメラの様子、岡山のコンビニの棚から商品が散乱している様子。まだその時点では神戸・長田の様子もすぐには入ってこない。
 しかし、どうやら地震情報から最も被害が大きいのは三宮の方だとおおよその見当がつく。もう少し何かが分かったら飯を食って、そうそうに東京に帰ろうと思っていても、次から次に報じられる様子を見ているとなかなかテレビの前を離れられない。
そのうちにヘリコプターからの映像に立ち上る黒煙がうつり始める。だんだん状況が分かってくる。新幹線は完全に分断されている。そしてあのぱったり倒れた高速道路である。後になって鉄筋工事の大幅な不備であったことが判明するが、かつてよくいわれていた「他が倒れるときには倒れてしまっていても良いが、そうでないときにはやっぱり建っている程度の安全係数」なんて分かるわきゃない。
 結果として二日後まで岡山をでることができなかった。ではどの様にして帰京してきたか。
岡山空港からとれた唯一の東日本行きの飛行機は仙台行きだった。これに乗り、仙台から東北新幹線で東京に帰ってきた。
 この年私は5月から豪州に赴任することになっていた。神戸にボランティアで駆けつける、ということを考える余裕がなかった。自分のことで精一杯だった。後になって知った。そうだ、そんなことをいっている場合じゃなかったのだ。しかし、その当時、私は「義を見て助太刀」をいたさなかったのだ。あの時、玄関を開けることに必死になって私が放り出してしまった叔母は昨年亡くなった。あれからもう8年だ。