衝撃的な話であります。それでも、考えられないことではない。僕だって小学生の時に、「あのやろぉ〜、殺してやる!」と何度思ったことか。そのために武術を習って、思いっきりあいつをたたきのめしたらどんなにさっぱりするものかと、何度も思った。
それでもなぜ、僕はその時それを実行しなかったんだろうか。怖かったのである。そんなことをする自分になってしまうことが怖かった。「そんな自分」とは何かというと、まわりの人間の意思を、気持ちを無視して自分の、ただただ、自分の意思のみを押し通すことができてしまう、そんな
自分のことだった。そうやって自分という人間の社会における存在というものを意識していたのだと思う。だから、時にはそんなしがらみを全部なくしてしまってどこか知る人のいないところにいって、面子や、社会的存在の繋がりを全部放り出して欲求のままに暮らしたら気持ちよいだろうなぁと思ったりした。
それが社会的規範だとは意識していなかったけれど、結果的にそうした価値観の礎(いしずえ)になっていたんだろう。
仲の良かった相手なのに、(こうしてカッターナイフを押し当てて殺そう)と思った通りに実行してしまう、できてしまうという事実の裏には、「こんなことをしたら人の道から外れてしまう」という気持ちがなかったということか。
そんなことで人が死んでしまったりはするはずがない、だってあれはテレビのドラマの中のことで、本当の世界では起きない、人間なんてそんなに柔じゃない、ということだったのか。
人をあやめるということが何を意味するのか、こうしたら本当に人が死ぬのだということを親はわざわざ教えなくても子どもは本能的に知っていると思っているのではないだろうか。
ところが、なんでもかんでも教えなくてはわからないという、いってみればハードだけの人間ばかりになっていることを忘れちゃならないらしい。
周りにいろいろな人がいてどんどんソフトをバージョンアップしてくれていた頃とは違って、今はそのままではソフトはバージョンアップされないんだよ、きっと。