ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

浅間山

nsw20722004-06-12

2002年7月撮影白根から望む。


昔から浅間山はみてきた。
群馬県の山あいにはじめて入ったのは1961年のことだと思う。
中学校の林間学校は群馬県の新鹿沢温泉の旅館だった。
当時、私は大森の中学に通っていた。
朝5時に大森の駅に集合だった。


困ったことに、私は横浜の実家からこの中学に越境していた。
実はこの中学はめったやたらと越境の生徒がいたのである。
地区別生徒会というのをやると川崎市から越境している生徒の部屋、
その他の神奈川県から越境している生徒の部屋、なんて云うものま
であった。
一番遠くから通っていたのは藤沢だという噂だった。


だから、朝の5時に大森の駅に行くのは至難の業だった。
知り合いのいる生徒は大森に前日から泊まった。
私は・・・なんと車を雇ったのであった。
なんと生意気に横浜から大森まで送ってもらったのである。
しかも、駅前に乗り付けるわけにはいかないから、少し離れたところ
に止めて人知れず歩くという芸の細かさである。


電気機関車にひかれた列車に乗り、信越線を上野から上田まで行った。
後はバスであった。
何とも遠いところまで来たなぁという感慨に充ち満ちていた。
鳥居峠をバスが越えると本当に高原に来たと感動した。
朝晩は冷えた。
二日目か、三日目にハイキングに行くことになっていた。
前日のミーティングで上は寒いので、コートを着ていく様に云われた
が、そんなものを持っていない。
確か誰か友達のコートを借りた。
ハイキングに行かないという生徒のものであった。
確か標高2354mの四阿山(あづまやま)だったと思う。
確かに上は寒かった。
同級生が寒い、といってくっついている白黒の写真が実家のアルバム
にある。
周りはすっかり霧にまかれて視界は効かなかった。
下山は滑った。
そうこうして苦労して降りてきた時には、実はその借り物のコートは
土にまみれ、終いには木の枝に引っかけてかぎ裂きまで作ってしまっ
た。
とても申し訳なく、大いに謝った記憶はあるのだが、実はそれが誰だ
ったのか、まったく記憶にない・・・。
申し訳なかった。
多分その生徒は家に帰ってから親に叱られたことだろうと思う。
そういう時代だった。


高校にはいると都立高校にも拘わらず、その高校は信濃追分に寮を持
っていた。
今でも建て直してその場所に相変わらず建っているが、油屋の先から
登って千メーター道路にぶつかるところにある。
高校一年は各クラスごとにそこへ出かけ、石尊山に登った。
とても地味で真面目な学校だったから、写真を見ても誰も彼も当時の
純真そのものという高校生だった。
今と比較して考えると高校生年代の違いはとても大きい。


軽井沢に暮らしている大学時代からの友人がそこに引っ越したのは
1980年代に入ってからだろう。
その年に彼は軽井沢の駅前から旧軽井沢へ向かう道の万平ホテルに
曲がる角あたりにおみやげ屋を出した。
その年、浅間山が噴火した。
毎朝店の中から前日お客の靴について持ち込まれた黒い火山灰を掃
き出すところから店は始まっていた。
彼らは当時木造アパートの一階に住んでいた。
そのすぐ裏は信越線の線路で、踏切の横にはおらが製菓という和菓
子屋さんがあった(今でもある)。
私がアフリカから帰ってきた翌年、長男は都会の暑さで頭によりを
作ってそのかゆさに夜泣きした。
長女も生まれたばかりだった。
そこで、その友人のアパートの上の部屋を一夏借りて、家族を都会
の暑さから解放した。
週末は自分が信越線に乗って中軽井沢の駅まで行き、妻と子どもた
ちが迎えに来てくれた。
浅間山を望み、裏の田んぼに散歩に行くと牛が鳴いて長男を脅し、
雉の親子が時として出てきた。
彼は石の転がる未舗装の道を珍しがった。


それからほぼ毎年彼ら友人のいる軽井沢に遊びに行った。
テニスにも行った。
そのたびに浅間山はつるっとした顔を見せた。
おかげで今でも毎年彼らのところに遊びに行く。
そうこうするうちにもう一人の友人が軽井沢に転勤になる。
もう一軒遊び相手ができた。
彼はこれまで働いていた会社がその勤務店を売ってしまったが、そ
のまま地元に拠点を作って残った。
なんだか、みんな都会に暮らすことに固執しない。


そういえば、あの近辺にできる新しい店に行ってみると元はといえ
ば東京だ、という話を良く聞く。
塩沢の方に暮らす人たちと知り合うとこれまた脱東京組が珍しくない。