ほぼ足りてまだ欲 その先

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新編「昭和二十年」東京地図*1

 もともとは1986年に発行された「昭和二十年東京地図」と1987年に発行された「続・昭和二十年東京地図」を再編集したものだと奥付に書いてある。文庫化されて直ぐに買ったらしく、新刊の帯が掛かっている。「超芸術トマソン*1や「東京路上探検記」*2あるいは「建築探偵の冒険 東京篇」*3のあたりの東京の日常を切り取ってしっかりと目の前に提示してくれるある種の蘊蓄ものとでもいうような本なのかも知れないと思っていたんだと思う。なぜか他の部屋の棚にひっそりといた(正に居たというのがふさわしい)のである。藤森照信たちは「路上観察学入門」のように街中で何気ないものを教えてくれていた。
 で、この「昭和二十年東京地図」であるが、文章を担当している西井一夫は出版社の弘文堂を経て毎日新聞。「カメラ毎日」編集長から出版企画室委員、というところまで書いてある。しかし、実は2001年11月にわずか55歳、食道がんで亡くなっているらしい。2002年にはNHK-BSで彼の死を追ったドキュメンタリーも放映されたようでもある。http://homepage2.nifty.com/ARARYU/sub1a04.htm
森山大道東松照明荒木経惟たちとも一緒に仕事をしたらしい。毎日新聞社の『シリーズ20世紀の記録』の編集も担当していたようで、その仕事ぶりには定評がある。(http://d.hatena.ne.jp/solar/comment?date=20040226)
 で、この「昭和二十年東京地図」であるが(あれ?まだ進んでないんだ・・)浅草から、立川・東村山まで網羅しているわけだけれど、街の様子を写真を掲載して語るのだけれども、それがただ単に街の記録に終わっているわけではないところが、読ませる。
 137ページに「同潤会アパートと貧民窟の関係」と題するセクションがある。長いけれど引用:

そうして明治政府が窮民対策を放置しておけた背景には、江戸以来の下町における店(たな)と地域の深いつながりにおぶさったところが大きい。木場や佐賀町の大店では、自家の直接の使用人でなくとも、平生出入りしてその家の仕事を手伝っているものは、毎朝その大店へ行って朝飯を食べ、外へ仕事に行く時は弁当もそこからこしらえていくという風が大正初期までは残っていた。その代わり、御店(おたな)の用といえば何をさしおいても飛んで駆けつけ、病気や不時の入り用は面倒を見てもらう。(中略)
 しかし、こうした御店とは関係なく、賃労働と資本の関係にもとづく工場ができはじめると、そこに救護事業の必要が生まれる。(中略)・・のなどが医療施設、幼児保育、共済組合事業を営むようになった。それは資本の慈善のような面をしてはいるが、資本が御店と窮民の関係をまねることなしには、工場の機械的秩序に合わせるよう労働者を管理しえなかったことを示している。本音としては資本はそんな経済的無駄はしたくなかったであろうが、御店と窮民の持ちつ持たれつの関係は江戸社会の深い根であって、これを逆に利用し、農村における名主・庄屋と小作の関係をも二重のテコとして管理の網としようとしたのが家族国家論であり、天皇を御店とする親方日の丸、明治天皇制国家であった。明治四十四年に天皇は貧民済世についての勅語を下し、宮廷費百五十万円を下付している。この年が明治政府による救護政策元年である。

岡村重夫の本の中に記載しておいてもらいたいと思った次第。
 永井荷風高見順が従兄弟だったことであるとか、若い頃に私がなぜか熱中して読んだ高見順の「敗戦日記」が引用されていたりするので、がつがつと読み進みそうである。
 と書きながらまた途中まででどこかにおいて来ちゃったりするんだろうと確信するのである。それにしてもこの本の表紙、一体全体、私はどこでこんなダメージを加えてしまったのだろうか・・・実に申しわけがない。