朝の9時過ぎに松江の街に着いた。ただただ暑くて、これは耐えられないかもしれないと思ったのだけれど、この街事態も落ち着いた風情をもっていて落ち着く雰囲気がある。といっても私が歩いたのは本当に限定された地域であって、小泉八雲の記念館の並びだけである。何しろ時間が90分しかないのだから、ちょっと歩けばすぐにそんな時間になってしまうのである。一行の他の人たちは掘り割りをぐるっと回る小さなボートに乗りに行った。私たちは非常に限られた範囲を歩いていた。もう一組はタクシーを飛ばして美術館を見に行ったそうである。
小泉八雲が日本に暮らしたのは、なんとわずか14年間のことにすぎなかったことを知る。その間に学校の教師をし、病気をし、結婚をし、子どもたちをもうけた。この記念館は云われたとおりに本当に小さなものであった。ラフカディオ・ハーン(当初日本では「へるん」さんと呼ばれていたそうだけれど)はその成長期にあってあちらこちらに動き、多分落ち着いた家族というものを充分味わったのはこの晩年の日本においてはじめてではなかったか。
私は多分耳なし芳一や、くわいだんを簡単な中学生向けだったか、高校生向けだったかの英文で読んだのが最初だと思う。考えてみると私たちの世代はこうした文芸作品を学校の、それも教科書でずいぶんそのさわりを教えてもらったものだ。多分、そこから興味を持ってその先を読みたいとみんなが思うだろうという期待があったのであろう。残念ながらあまのじゃくの生まれ変わりといわれる私についていえばこの文部省の考え方には簡単には与しなかったのである。といって威張る場合ではないけれど。
ラフカディオ・ハーンの時代には静岡の焼津は避暑地として出かける類の場所でもあったのだろうか。そんな写真が出てくる。考えてみれば大磯や茅ヶ崎だって昔は避暑地だったわけだ。
この記念館をどなたが運営しているのかは知らないが、ラフカディオ・ハーンの子孫という「小泉 凡」さんの写真が出ていて、当記念館顧問としてある。ラフカディオ・ハーンのこども(一女三男)のうち二人は終戦前になくなっている。長女が死んだのが確か1944年としてあった。彼らを含めて当時のダブルの人たちはどのような経験をしているのだろうか。欧米は明らかに忌み嫌われていたのではなかったのか。彼らの父はアイリッシュとグリークのダブルであるから明確に他の日本人とは異なる風貌であったはずだから。
小泉記念館はもちろんここだけではなくて、熊本にもある。熊本市安政町1?1の住居跡がそれで、1891年第五高校中学校の 英語教師として暮らしていた時のものである。
八雲の最後の住まいは東京の西大久保である。「小泉八雲終焉の地を表す一隅が」あるとしてあるが、未だ見に行ったことはない。
松江の小泉八雲記念館の隣に旧居後がある。ここに入るにもお金を取られるのだそうだ。入り口の門に立ってみるとめったやたらと張り紙がある。なになにと老眼鏡を凝らしてみると「門から入ったらその時点で入場と見なし料金をいただきます」とでも云うような文句を発見。もちろんがやがや玄関先でウルサイ人たちがいくらも来るからイヤになっているんだろうなぁと云う気持ちは充分わかる。それがにじみ出ている。はいはい、すみませんね、といってあげたい。だけれども住居不法侵入をとがめるような雰囲気を感じてしまってすっかりイヤになる。そのままその先にいくとお菓子屋さんやおみやげ屋さんが数件あつまっているところがある。