ほぼ足りてまだ欲 その先

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みんないっぺんにやられる

 全然、わかっていないんだけれどもこんなことをつらつら考えた。こんなことはとっくに解消されていてみんな張り切って邁進しているんだろうなぁ。こんなに進んでいる国の進んでいる社会なんだから。
 グローバライゼーションの恐ろしさは、ある地域あるいは国が全体的構造の中で役割分担する結果となることにある。なんだか反対のように聞こえるけれど。Aという国がa商品の供給国であってbという商品の需要国になる。Bという国がcという商品の供給国であってdという商品の需要国になる。それをグローバルなレベルでそれぞれが分担していく。すると、この分担に参加する地域すべてがひとつの経済圏を構築することになる。これがなんで恐ろしいのかというと、ひとつの仕組みが崩壊した時、この分担参加するすべての地域に影響が及ぶことになるからである。(いや、こんなことはすぐに論破されるくらいに議論されてきているんだよ、きっと)
 いつの間にか小麦の大量消費地となった日本は、米国、豪州、ロシア等の小麦生産国のどこかひとつが壊滅的なダメージを受けると、それだけで需要と供給のバランスが崩れてしまって、その消費量をまかなえなくなる。
 では、なぜちょっと郊外をドライブしただけで減反され、放棄された元田圃をこんなにたくさん目の当たりにするのであろうか。日本という国はそれほど多くの米生産能力を棒に振ってきたということである。ただただ、私たちの国の米の生産能力を潰してきたのだ。それほどに我が国は食糧の過剰を抱いているというのであろうか。食べられるものを食べ、それ以上に創出される欲望に対しては輸入でもなんでもして対応すればよいだろう。米作に励み、米を食べることが東アジアのこの辺に最も適した食生活だったはずである。簡単に自然現象の変化によって共倒れになってしまう機構を、それが企業の利益に貢献することが考えられるということで取り込んでいくのであれば、それは自由主義ではなくて、やっぱり企業主義であって市民は単なる消費機関にすぎない。
 政治とは他国の力に振り回されることをそのまま飲み込んで波風を収めることだけではなくて、意味ある考えの基に方向性を創り出すということにあるのではないのか。こうして世界がひとつの単位になるといっぺんに人類は崩壊する危機に身を置くことになる。
 あ、でもそれでいいのか。みんなが消失する時には政治家も市民も、とにかくみんないっぺんに消失しちゃうんだから。