ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

なんだというのか

 ニートを抱えて我が国はこれからどうなっていくのか。何がいけなかったのか。彼らはこれからどうしていくのか。そもそもこれからの我が国では労働環境はどうなっていくのだろうか。


現時点の日本の社会においてそもそもこれ以上仕事口が増えるとは思えない。マーケットは拡大するわけではない。その上、無理して稼がなくても、時間を制限されなくても、なぜかしらないけれどどうにか暮らせてしまう。そうであれば焦って家から出て行こうとする若者が少なくなってもおかしくない。

 雇う側がそれまでの「家族としての」忠誠心をもとめた安定した労働力を手元に確保しておくという文化に価値をもとめていたのに対し、一度バブルという大失敗を経験してみて、そんなものはどうでも良い、とにかく安い労働力を確保することが「善」であるとしたことから労働市場の革命が始まっている。忠誠心なんてものは必要じゃない。とにかくロボットのようにスイッチを入れたら動き、それでいて安いものが確保されればそれでいい。教養とか、QC活動を残業返上でやるようなそんな労働力なんていらない。だから、高校生だろうと大学生だろうと、専門学校生であろうと、アルバイトで暮らしている人だろうと安く動いてくれればそれで良い。


 一方、ちょっとの時間を労働力として割けば、親の手元で暮らしている限り、飢えることは決してない生活はできる。ただ、それは自らの身を削っているに過ぎないけれど、そんなことに気づくこともあまりなく、その代わりにできるだけ拘束されないというこれまでになかった「自由」を手に入れている。その結果こうした社会現象が現出しても、雇う側には何も責任はないと思っている。何しろ次の世代の経営側スタッフにも困っていないのだから。つまり、これからの若手労働力はこれまでにも増してほんの一部の経営スタッフとその他という二極化に拍車がかかっているということである。


 今の大学生で就職活動をしている人たちの話を聞いていると、10社訪問当たり前、20社、30社とアプローチをし続ける。かつては現場のフロントで身を粉にして歩き回るスタッフも丸抱えで雇い入れるのが当たり前だった。だから採用人数が今の比にならない数であった。しかし、今ではそうした職種は自分のところで労働災害保険、厚生年金保険、雇用保険など福利厚生費用を負担することなく、外からたいしたことのない管理費を払うことによって確保することができる。そうした労働者は自営業者となっていることが不思議なこととは思われないというのが現在の不思議なのである。


 とにもかくにも働いてまず金を稼がなくてはならなかった私たちの子どものころとは全く大きく違っていて、簡単に小銭は稼ぐことができる。ただし、本当にその小銭だけである。しかし、それが何を意味するのかということを官僚も、政府も、マスコミも口をつぐんでその根本的問題点を語ってこなかった。


 なぜか。それは日本の企業天国社会がその根底にあるからである。今この国を牛耳っているのは誰かといえば、それは米国と、大手企業である。自由民主党公明党が進めてきた政治はこの国の経費の負担を将来の国民にもとめているんだということをはっきりと認識する必要がある。


 公明党創価学会は大企業経営者が支持者であったとは認識していない。しかし、自営業者が多くおられるだろうことは考えられることではあるだろう。しかし、本来的には覇権主義的志向をここで満たそうとしているのではないのかという疑念はふくらむばかりである。「平和・福祉」を振りかざしていると見せていながら、大企業経営を優先するためにすべてのシステムを変えていこうとする自民党と同じ歩調を取るということは、与党という立場を保つためならば「平和・福祉」という嘘をつきながらも行くということだろう。


 これだけ見え透いた断片的な言葉を投げつけるだけで政権を維持できる政党をそのままにしている国民は何もしていないのだといっても過言ではないかもしれないと思う。大企業が儲かることがなぜ彼らにとって必要なのかといえば、それだけの見返りがあり得るからに他ならない。「見返り」とは金銭的なものとは限らない。道路公団談合はこれ以上の公的入札制度に対する規制、あるいは摘発に波及するだろうか。明確に「否」であろう。今の政権にとってなんらメリットは生まれてこない。つまり現政権はこうした政権である。国民全体の「本来的意味での」利益を追求するつもりはない。