ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

57回もやったそうだ

 今朝からNHKがしきりに話題にしているんだけれど、今日は渡辺プロダクション渡辺美佐が最初のウェスタン・カーニバルを日劇で開催した日なんだそうだ。ついに最後は57回にまで至ったんだという。尤も最後はグループ・サウンズ・フェスティバルのようなものだったと記憶している。1958年が最初だというのだから、私は11歳で小学校5年生だったはずだから清水の三保に住んでいた。だからその現場にはいなかったのは無理もない。中学生で東京に帰ってきて、数寄屋橋日劇前には築地の方の印刷屋さんにいくのに、日劇の前を通ったことがあるが、しょっちゅう日劇の正面には大きな看板がのっけてあってそこに縦書きに出場者の名前が書いてあったなぁ。田舎から出てきた私よりは10歳以上歳上の従姉が日劇に見に行ったのがいた記憶はある。私の年齢で、なにかといえば学校の掃除の時間(今の子は掃除当番なんてやらないんだろうなぁ・・)に長い柄の箒を抱えてロカビリーの真似をしなかった奴は誰一人いないだろう。私ももちろんやっていた。今で云えばエアー・ギターだ!
 そして当時のロカビリーのスターといえば平尾昌章、ミッキーカーチス、そして山下敬二郎山下敬二郎も既に66歳だそうだ。彼の父親はあの柳家金語楼である。そういえば金語楼の兵隊落語には(そんなことをやっていたんだね、彼は)「やました、けったろぉ〜でありまぁ〜す!」と云っていた。NHK山下敬二郎が出演して親父、金語楼のことを如何にもこの年齢の人らしく、あの野郎という雰囲気で話す。
 金語楼は家では大変に厳しく、「家で喋っても一銭にもならない」とほとんど口をきかず、うなぎを自分が食うのにも子どもには一口も喰わさず、「喰いたかったら自分で稼いで喰え」と云ったという。だから、山下敬二郎は中学終えたら自分で稼ぎに出た。最初に貰った金で最初に喰ったのはうなぎだったという。彼は金語楼を何時までも許していなさそうである。駆け上がったスターの座から落ちていく時にもなにもしてくれないどころか、彼はその落ちた穴に蓋までしたと例える。金語楼は誰でもライバルだと思っていただろうし、それは息子に対してもそう思っていたに違いないと表現する。彼は最低限の生活を経験したという。
 私は先の三人の中では山下敬二郎が一番つまらなかった。なぜかというと、常に社会に対して斜に構えているようで(現実的にそうだったわけだけれど)、破滅型であったし、こんな奴とつきあったら面倒なことばかりになりそうで嫌だったのだ。ミッキーカーチスは今でもそうだけれど、お調子者で、けつが軽くて、幇間のようで、そのくせどこかプライドが高くて、油断も隙もできないという雰囲気を振りまいている。平尾昌章はすっかり「先生」になってしまったけれど、丸山明宏と出ていた映画の彼が忘れられない。つまりひらったい人である。
 私たちの世代だと、この辺の年齢の人たちは結構苦手である。そして全く同じことを一回り下の年齢の人は私たちのことをこういっているんだろうなぁ、と思う。