ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

銀座へ

 先日のバーを確かめに銀座に出た。ついでに今話題の「かもめ食堂」が見られたらと思ったけれど、なんと長蛇の列であり、平日の2回目の回にもかかわらずすでに「スクリーンのすぐか二階の後ろしか座れません」の札が出ているという盛況ぶり。そのほとんどがおばさんである。ちょっとその迫力に負けてしまってあとにする。これでは何時行ったら見られるのか分からないなぁ。大体小林麻美ともたい、そして片桐はいりときたら何かありそうだものなぁ。
 教文館にはいる。2階の新書売り場では例の藤原正彦お茶大教授の「国家の品格」なんという品のない題名の本をコーナーまで作って「さぁ買って、買って」とやっている。教文館ともあろうものが売れればそれで良いというスタンスは如何なものかと考える。部数が出ていればそれは世の中に支持されているという証拠だということを良くいう人がいる。随分短絡である。
 立花隆の「天皇と東大」はいつ頃文庫になるだろうかと思いながら手に取ると、その初めのところに、これは「私の東大論」の5回目からで、それまでの一回目から四回目までは「東大生はバカになったか」に収めてあると書いてあるので、その題名のものを捜すとそのまま文春文庫にあるのを発見した。それにしても文春と立花は角栄研究ではないが、ずっと繋がっているのだけれど、その根本的スタンスには大きな隔たりがあるのではないのだろうか。この本は題名がいやで手にしなかった。最近の新書や文庫はこの手のちょっと品のないものが売れる。さもなくば「〜〜な人とつきあう法」のようなものである。
 ダビンチ・コードがこのほど文庫化されておる。なにしろ上下にわかれた単行本は多分両方で3千円を超えるのではないかと思うが、上中下の三冊にわかれた文庫本は全部でもその半分くらいの値段しかしないのではないだろうか。ところが上巻が品切れ。だから、中も下も売れない。この手のものは三冊一遍に買うものではないのだろうか。まず上を買ってみる・・のだろうか。そんなことになっているとは知らなかった。それにしても売れている本の常として、「ブ」あたりで105円で出るんだろうなぁ。でも、5月にはトム・ハンクスで映画になるらしいから、それを見るなら前に読んじゃいたいだろうになぁ。なんでアマゾンでは文庫が掲出されていないのだろう。なんか不自然なことでも起きたのか。
 石黒マリーローズさんがよりによってPHP新書から「聖書で読むアメリカ」を出した。古くは講談社現代新書で「キリスト教文化の常識」と「キリスト教英語の常識」を出している。比較文化とか、アメリ政治学を勉強しようとする学生はこの辺を本気になって理解しようとしないと理解できないだろうと思う。そのための手がかりとしては石黒さんの著作は気にかけておいても良いと思う。
 斉藤貴男と林信吾平凡社新書から「ニッポン不公正社会」という対談本を出している。彼らは全くの同じ年齢で私から見ると一回り若い世代だ。この世代がこうした意識を持つことを私はかつては信じていなかった。佐高信広瀬隆、あるいはさらに上で戦前派である鶴見俊輔小田実のあたりならいざ知らず、この年齢層がこうした徹底した意見を表明して行く世代たり得ることが不思議だったような気がしていたのだ。斉藤貴男については前にも書いたけれども、私が初めて出会った時には場所が場所だったからということもあるけれども、劇画の話をしていたことを覚えているくらいのものであった。しかし昨年久しぶりに出会った時は、逆に彼の方があんな職場にいた私が、彼がコメンテーターを務めるような会場にいることを理解できない、という風情だった。多分彼にとってはあぁいう職場にいた奴がそう簡単に考え方を変える訳がないという思いこみがあるだろう。もし私が逆の立場だったらやっぱりそう思ったかも知れない。
 先週に引き続いて「週刊金曜日」を買った。先週号に佐高信による村上正邦のインタビューが載っていたからだ。その続きがあるのかと思ったら、それがない。ないはずだ、先週号の記事の終わりを見ると3月24日号に続くとある。来週もまた買うことになる。村上正邦は元自民党参議院のドンとまで云われた男である。しかし、KSD事件で逮捕。自民党はあっさりと彼を特捜に引き渡す。高裁で有罪。実は防衛庁長官の二度目のおつとめをしている額賀もこのKSD事件にからんでいる。しかし、村上、小山は研修・実習という実質的には非熟練労働者の海外からの導入のための在留資格なってしまっている制度の推進力となってきた。もちろんこちらは合法的な議員の活動かも知れないが、こうした疑惑にまみれていると、じゃ、国会でのあの質問は当然ロビー活動に影響を受けているんだろうなと思わせる。それまで二年間だった滞在期間を延長することになったはずである。それでも彼は青木に切られた、という。
 帽子屋の前を通りかかると、梅雨時のための帽子はどうだろうかという気に珍しくなったのと、時にはあそこのお店のお二人がたまには愛想良くなったりしないだろうかという気分になって、足を踏み入れた。夏になる前に被るものとしては結構手頃な感じのものがこの店には珍しいような手頃な値段である。その気になっても良いかもなぁと思ったのだけれど、パナマのパの字も知らないお客さんが一人いて、その人が買いそうな雰囲気を醸し出す。だものだから、私が上の方の帽子を見たくてもちっとも気を払ってくれない。しばらく話の切れ目がくるまで待つ。ようやくとぎれたから「済みません、この上の帽子を見せて頂けませんか?」とリクエスト。しょうがないな、という顔をしたと思ったら、一連を台の上にどんと置いていっちまった。結構良いかも、と思ったのだけれど、やっぱり止めておく。どうせだったらあっちで買った方が気分がよいもの。何度来てもここの方たちとはお友達にはなれそうもない。
 京橋で鯵と鮪丼を戴く。人には「また?!」と云われるのだけれども、私はそれこそ毎日でも食べたいのである。