ほぼ足りてまだ欲 その先

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尾崎行雄

 先日近所の図書館から借り出してきた「軽井沢物語」宮原安春著 講談社 1991を読んでいて面白い話を見つけた。
 宮原は軽井沢の歴史をここにつまびらかにし、多くの軽井沢に滞在してきた人達にインタビューをしている。その中に尾崎行雄(咢堂)の娘が登場する。当時の話を聞くために宮原は尾崎行雄の娘、相馬雪香を旧軽井沢の相馬家の別荘を訪ねている。相馬雪香は1912年の生まれで、現在も「難民を助ける会」の会長。「難民を助ける会」の前身である「インドシナ難民を助ける会」を1980年に創設したことで知られている。
 相馬雪香の父は尾崎行雄だが、母はテオドル尾崎(日本名英子)という。その名前からわかる通りに当時としては多分珍しかったダブルである。テオドルの父親は同じ尾崎ではあるが、尾崎行雄とは全く関係のない、尾崎三良(さぶろう)という人物であり、母親は英国女性バチア・モリソンである。尾崎三良は慶応四年に英国に留学し、頭角を現して親日派のモリソン教授の一人娘と結婚し、三人の娘をもうけた。しかるに彼は日本に帰国後明治7年に日本人と結婚してしまう。明治20年、長女の英子が来日。英子は頌栄女学校のキャロライン・アレキサンダーに預けられ、そこから桜井家で住み込み家庭教師となる。その後フレンド女学院で教師を務め、英国公使夫人の秘書となる。一方、尾崎行雄は三男一女をもうけたが妻、繁子を亡くす。1905年に尾崎行雄が46歳の時に、慶應義塾幼稚舎の教師兼ジャパン・ヘラルドの特派員だったテオドルと再婚する。相馬雪香が宮原のインタビューに答えた相馬家の別荘地は尾崎行雄が買い求めた四反六畝の土地そのもののようである。そこに尾崎行雄は莫哀山荘と名付けた別荘を建てたのだそうだ。宮原によると尾崎行雄は随筆に「軽井沢が好きなわけ」として「軽井沢は各地の(高原の)中で湿気がもっとも少ない」と書いているというのだけれども、私はとても承伏ができないのだけれどなぁ。追分あたり、あるいは塩沢の方へ行ってしまえばまだしも。
 私はこれまでに「難民を助ける会」の長(おさ)さんのお話を何回か聞いており、その活動の方針の確かさに実に納得していたので、たまたま相馬さんの話が出ていたので、アップしてしまった。