ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

ゴールデン・ウィークの読書

 プロジェクト運営に参画してみるとよく分かるのだけれども、最も重要なのはどの様な資機材を必要とするかを見積もり、それを調達し、現地に供給し、稼働させ、メンテし、撤収するのか、という点、すなわち兵站であり、mobilizationである。この中には勿論食糧も含まれるし、重機、備品、生活資機材も含まれる。これが上手くいかないとどんなプロジェクトでもいたずらに時が過ぎていき、契約期間内に契約工事が完了しない。となると当然予定していた利益も上がらず、一体全体なんのためにその仕事に取り組んだのかわからないという状況を呈する。赤字となり、責任者の首が飛ばされて終わることもあるだろうが、会社全体が存亡の危機に直面しないとは限らないだろう。
 先の戦争における日本の陸軍、海軍幹部の戦略の決定プロセスなぞを漏れ聞くと、それが確たるデーターに基づいて実施への決断がされているのかといえば、むしろ自己陶酔という言葉によって簡単に置き換えてしまうことが出来そうな、いわゆるその場の情熱、あるいはのっぴきならない自己主張の結果がそうさせ、まわりも「そこまでいうなら」という非常にあいまい且つ責任の所在を明確にしない決定を基に行われてきていたようである。零戦の対空砲火に対する防禦についての技術者からの提案を受けて源田実が「そんなことは必要がない、根性が解決する」という受け答えがどこまでも日本軍の背景に色濃く流れていたと云っても過言じゃない。そんな人間が戦後になって何人も何十人も与党の国会議員になっていたのだからそうした「血」をどろどろと引き継いでいないわけがない。
 そして戦後の日本社会はこうした武士社会の上下関係を全くそのままに置き換えたにすぎないともいえる似非近代化に於ける日本固有の軍隊システムをそのまま受け継いだに過ぎないから、いつまで経ってもこうしたプロジェクトの実施にあたっての必要不可欠な要素を真剣に語ることなく、「必ず貫徹する、必ず儲ける、必ず敵に背中を見せない」を合い言葉に、壮絶な自己犠牲をも強いることによって造り上げることを至上の命題とする。その姿はアジア太平洋戦争のガダルカナルであり、沖縄戦であるといっても良い。もはや今時はそんなプロジェクトのやり方で糊口を凌いでいるわけではないと思うがこの辺の悲壮感に酔うという姿を日本人は得意である。
 こんなことを、保阪正康の「昭和史入門」(文春新書)を読みながら、しきりに「ウン、ウン」と、周りに誰もいないにもかかわらず頷いて思う。
 先週のLOTO6で1000円が当たったことがわかってもうそれだで、今日は充分「しあわせ」だ。