ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

私の幼い時の記憶の一部を記録

おぶさっていた

 あれは多分、相当に多分なのだけれど、東横線の東白楽なのではないかと思っているのだけれど、夕方というか、既に暗くなっていた時間に白熱灯の明かりがついた高架にかかった木造の駅舎をおふくろの背中におぶさられたまま上がっていくという風景だった。東横線の反町から歩いてもかなりあるところに住んでいたのだからわざわざ子どもをおぶさったままたった一駅をなぜおふくろは東横線に乗ったのか、あれだったら、東白楽から歩いてきた方が良かったのではないかと今では思うのだけれど、もうおふくろはいないし、生きていたとしても多分そんなことは覚えちゃいないというのだろう。

下駄を履いていた

 私はこれまでの記憶の中では幼稚園にはいる時に引っ越したのだと云われており、引っ越す前の記憶だから5歳もしくはそれ以前の記憶である。学校に行く二人の姉を玄関で見送って、そのまま下駄を履き、霜柱でぐちゃぐちゃになっていた関東ローム層を踏みしめて蒲団を干していたおふくろのあとをついて歩いていた記憶がある。その下駄にはかかとに引っかけるゴムひも、それもまるでパンツのゴムひもみたいなものがついていた。それならすぐに脱げないわけだ。そんなに幼児という雰囲気ではなかったはずなのだけれど、目線から見る限りは相当に幼児の様に思えるのだけれど、2歳上の姉まで学校に出かけた記憶があるから5歳くらいの筈だ。それとも彼女は幼稚園にでも行ったのだろうか。

門が倒れた

 家の入り口には門とは名ばかりの引き違い戸がついただけの入口という意味のものが建っていた。どういう理由なのか知らないが、その門を門枠ごと新しいものに取り替えるために、その新しい枠を持ってきて立てかけてあった。他人が家に来るともう嬉しくて嬉しくて、昔から有頂天になるのが当たり前だった私はその立てかけてあった門枠をあっちに行ったりこっちに来たりでふざけているうちに何の拍子か、それが倒れ、私にぶつかり、唇の下を切った。医者に担ぎ込まれ、縫ったらしい。かなりの年齢になるまでその傷跡を示すことが出来た。今はもうとっくにわからない。

ポンせんべい

 終戦後はどこの街角にも爆弾あられともポンせんべいとも云われるものをつくる商人が来た。機械をリヤカーに乗せてきて「ボカァ〜ン」と爆発させて米をあられにした。サッカリンの味がした。米を茶碗に一杯、おふくろからもらってそれを誇らしげに持っていった。考えてみればあれは多分押し麦でも出来ただろう。でも押し麦を持っては行かなかった。米だった。まだ米に価値があった頃のことだ。そのポンせんべいの機械を中心に大騒ぎが起きるのは住宅地の中にある広場だった。この広場にはテニスネットを張ることの出来る支柱が二本立っていた。つまり、社宅の福利厚生施設で、テニスコート一面分とブランコ、砂場がつくられていた。その南の斜面は雑草が生い茂っていて、春はあちこちにつくしが出た。子どもはそれを摘んで頭とはかまを指先が真っ黒になるくらい取り、母親に佃煮にしてもらうんだけれど、できあがってみると情けないほどの分量にしかならなかった。それでも、ことさら旨い、旨いと云って食べた。

野犬

 1950年代初めのことなのだろうが、当時良く野犬狩りの人たちがやってきた。あれは多分狂犬病撲滅のために当時の保健所が自らの職員を使ってなのか、あるいは外部に委託していたのか知らないけれど、実施していたのだろう。当時の私たちのような子どもたちには窺い知ることができないのだけれど、突然、あたかも米軍のコンバット部隊がそーっと街に入ってきたかのように、わらわらと現れる。何人もいて、手には網、あるいは細いけれど丈夫そうな針金を輪にして長い棒の先につけたものを持った頑健そうな男たちが現れるのだから迫力がある。大変に申し訳のない話だけれど、私たち子どもは誠に無神経にも「犬殺しが来たぁ〜!」と叫んだ。さぞかし傷ついたものだろうと思う。一匹でも余計に収容してやろうと思ったのではないだろうか。当時の飼い犬は首輪をしてはいたが、繋がれていないのが当たり前だった。自分の家からそう簡単に家出をしたりはしなかった。だからうちのベージュ色した雑種の雌犬のメリーもそんな具合にあっち行ったりしていたから、そんな時には大きな声で「メリィ〜っ!」と叫ぶ。戻ってくると首輪に掴まって野犬狩りのおじさんたちがいなくなるのを睨んでいた。

日の丸

 1953年3月30日、今の天皇陛下、当時の皇太子殿下は英国でその年の6月2日に行われるエリザベス二世の戴冠式に出席するために横浜から氷川丸にて出発した。昭和天皇の名代として出かけたそうだ。多分私が生まれて初めて皇族のひとりを見た最初の機会だっただろう。しかし、正確に云うと見ることが出来たかも「知れない」機会ではあるが。
 画用紙に赤い丸をクレパスで描いてそれの端を割り箸に糊でつけ、小学生の人たちにくっついて横浜駅から東京よりにある青木橋に向かう第二京浜の沿道でその一行が来るのを今か今かと待っていた。しかし、その一行は一向にやってこなかった。幼稚園児だったと思われる私はすっかり飽きてしまい、線路を見下ろす橋桁から下を走る何本もの線路にやってくる様々な電車を見ていた。あそこには京浜急行東海道線横須賀線京浜東北線以外に貨物列車も通りかかる。子どもは鉄道を見ていることが好きだ。
 あれからしばらくの間私はなにかというとおふくろから割り箸をもらっては日の丸をつくっていた。結構愛国心に萌えておったのである。これは独立してすぐのわが国の愛国心教育としては充分に機能していたことがわかるが、結果としてはそれ以降のだまくらかし政治がすっかりこれをぶち壊してしまったことがわかる。坊ちゃんの爺さんに感謝しなくちゃならないかも知れない。(国会中継の彼の発言を聴きながら書いていることが大失敗か)。