ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

在米日系人

 数年前から国際交流基金日米センターがロス・エンジェリスにある全米日系人博物館と共催、経団連の後援を得て公開シンポジウムを開いている。これらの機関はこれまでも在米日系人の若手リーダー(その定義がどの様になっているのかは知らないが)を毎年日本に招いて交流をしている。今年も公開シンポジウムがあって経団連会館のホールで開かれた。昨年は全米日系人博物館があるロス・エンジェリスで開かれたというのだから私が前回ダニエル・イノウエ上院議員の話を聞いたのは2005年のことのようだ。
 こうした交流がどの様なスケジュールで行われているのかは単なる外部からの参加ではよく分からないが、私が垣間見ることができるのはこのシンポジウムだけである。前後にあるらしいスケジュールに参加している方々にはそうではないのだろうけれど、私のようにシンポジウムのみに参加するものにとっては甚だ食い足りないものである。今年のシンポジウムのテーマは「変わりゆく日本のイメージ? -米メディア界で活躍する日系人の見方-」(Is the Image of Japan Changing? – Perspectives of Japanese Americans in Media)というもので、基調講演者はダニエル・イノウエ上院議員武田薬品工業の社長で経団連アメリカ委員会委員長の長谷川閑史(やすちか)である。
 冒頭挨拶に立ったのは外務省の経済担当審議官*1の河野雅治である。彼はロス・アンジェリスの総領事を務めていた経験を持ち、全米日系人博物館とは繋がりがあり、登壇するなり、この会を司会している全米日系人博物館の副館長であるカイフ・ユウコと親しそうだった。河野はさすがに英語に堪能なのだけれど、英語の堪能な日本人にありがちなように早口で、しかも語尾を呑み込んでしまうので、甚だ聞きにくい。多分同時通訳者は相当に苦労したことだろう。それにしても日本人の英語はわかりやすいなぁと思ったのだけれど、7年ほど前には日本人の英語が一番聞き取りにくかったことを考えると私の言語能力も随分と変わったものだと痛感する。彼の長いスピーチというか、漫談の中で9.11以降のアメリカのethnicityについて触れ、「Good Japaneseと日系人の繋がりを構築することが重要だ」と述べた。この「Good Japanese」はいったい何を意味するのだろうか。goodなJapanese全体を差すのか、Japaneseの中でもgoodな部分を意味するのだろうか。
こちらで総合外交政策局長時代にLos AngelesのSky Avyに登場した河野を見ることが出来る。

基調講演

 ダニエル・イノウエは相変わらずの落ち着いた話しぶりである。これまでの日米の関係は非常にうまくやって来れた、特に安倍がワシントンの議会を訪問した時に米国議会が超党派で彼をウェルカムしたのは非常に珍しいことだったのだと解説する。勿論下院の<慰安婦決議>にも彼は触れている。「どの国でもリーダーが謝罪していればそれは国を代表した意思であり、あの行為は間違っていると思う」というものであった。
 「日本人と在日系人との間にある壁は取り払われるべきだ」として、「確かに日系人の祖先は当時の日本を代表する層でなかったことは確かだ」とかつての岸首相からいわれたということばを頭に残したままなのか、そう述べ、しかし、日本からの移民はこの100年間の間に全米に於けるethnicの中でも優秀な実績を獲得するまでになったことを次々に並べ、日本人との間の交流について、「在米日系人側はいつでもreadyである」として、「アロハ!」で演説を締めくくった。
 しかし、これに続く長谷川の基調講演は残念ながら講演というにはほど遠い内容だったというしかない。「日米の貿易摩擦の時期は既に乗り越えた」というが、それはなにゆえに乗り越えたということができるのだろうか。ひょっとすると日本という存在が米国経済にとってはもう相手ではなくて、今や相手が中国に移ってしまっている、ということがその様に見せているのではないのだろうか。つまり相手が妥協してきたのではなくて相手がいなくなってしまっているのではないのか。
 彼はここで「私の子どもの頃の楽しみは名犬ラッシーやら、ララミー牧場といった米国のホームドラマだった」というのだけれども、そんなことをいっている場合なんだろうか。これからの日本は東アジア諸国を中心に二国間のFTAに向かっていくだろう。しかし、「それは外部に開かれたFTAでなくてはならない(アメリカを意識した発言だからなのか)し、また日米FTAに向かっていかなくてはならない」と発言している。こうした日本側の発言の中には日本(の経済界)が日系人社会と連繋を進めることによって得るものが何であるのか、だからどうするのかという意思が感じられないのはなぜだろうか。

シンポジウム

 シンポジストは大変に興味深いメンバーである。CNNの元キャスターのサチ・コト(今は当時と髪型も化粧も変わっているのでちょっと見ただけではぴんと来ない)、同じくCNNの現地レポーターとして日本にも駐在したことのあるというフランク・バックレー、三人目が「硫黄島からの手紙」の脚本家として知られている「アイリス・ヤマシタ」である。
 モデレーターである沼田貞昭*2はシンポジストの三人に生活感覚に基づいた日本のイメージ、そして政策から見た日本のイメージはどの様なものかと聞く。
 サチ・コトは米国市民から見た日本人のイメージが最低だったと思われる真珠湾から始めて、数々のカリカチュアを見せてくれた。映画のゴジラやアトムの漫画、SONYTOYOTA、キティの製品は別の意味での大使だったといっても良いだろう。オウム事件は日本人の不気味さを想い出させた。小泉は日本の首相のhuman sideを見せたという点で突出していたといって良いだろう。彼女は最後に、日本人はやはりコミュニケーションの手段としてのglobal languageである英語をマスターしていかないわけにはいかないだろうと強調した。そしてお粗末な日本人の英語を目にする度に日系人として辛い思いをすると表現した。
 彼女は例のEngrish.com(http://www.engrish.com/)を紹介した。主にアジアで見付けた大間違い英語をあざ笑うサイトである。確かめもしないで英語を容易にどこにでも書いてしまう感性というのは、そういえばいつまで経っても変わらない。ということはやはりそれは一種の文化なのかも知れない。日本語やハングルは文法的に英語とは全く異なる言語構成を持っているのだから無理もないといえば無理もない話なのだ。占領期に危うく言語としての日本語を失いそうになった一瞬もあったけれど、それを失うこともなく無事に英語圏国家を中心とする連合国による占領を終えたことは重要な文化保存の動きだったといって良い。自分たちは他国にそれを強制したけれど、自分たちはそんな目に遭わずにきた。この国の英語力をこうしたあげつらいサイトを悩ますほどのレベルに上げることはまず無理だろう。残念ながらサチ・コトを死ぬまで悩ませ続けることになる。しかし、それはひとつの言語が純粋な形で残るための条件かも知れない。
 フランク・バックレーはLos AngelesのKTLAで制作した原子爆弾の被害者を取り上げた番組を上映して見せた。彼は神戸の大震災の時に日本にいて、現地に取材した経験を持つ。
 アイリス・ヤマシタは映画関係に暮らす立場から米国映画に見る日系人の歴史を垣間見せてくれたが、多分彼女は村上由見子がライフ・ワークとして取り組んできた仕事を見たことはないだろう(著作は全て日本語でもある)。「イエロー・フェイス ハリウッド映画にみるアジア人の肖像」(朝日選書469 1993)「アジア系アメリカ人 アメリカの新しい顔」(中公新書 1368 1997)にその歴史は詳しく書かれている。バブル時期の日本人を称して「Money Grabber」と表現したものを見せたが、場所が場所だけに思わず苦笑いがでてしまいそう。最後にクリント・イーストウッドに触れて、「とてもcalmな人で、いわゆる監督らしい行動をとる人でない」と微笑ましい。彼女は後半で、Japanese Americanと意識するよりもアジア系のAmerasianとして意識していくべきではないかとも表現した。
 5分間の休憩を挟んで会場からの質問に三人が答えた。サチ・コトに「効率的な英語の勉強法を教えてくれ」と質問を出した人がいたのには笑った。そんなことをこんな人に聞く位だからその先は知れている。
 「一般市民社会の中で過去のことは蒸し返されるか」という質問にフランク・バックレーが「どんなethnic soceityでもあるだろう。自分たちにとって良いことだけを取り上げるのではなく、fairな見方を提供することにある。日本に対する誤ったイメージがあればその不正確さを指摘しなくてはならない」と答えた。この質問に対する答でサチ・コトは「あの戦争に関していえば今は非常に危険なポイントにいることを考えた方がよい」といった。
 最後にアイリス・ヤマシタが重要なことをいったと私は思った。それは「日系人なのか、日本人なのか、新2世なのか、2世なのかなんてことは人間としてみたら小さいことで、それが何なんだろうという感じだ」というのである。彼らの忌憚のないところからいえば多分、ひとつの軸のあっちとこっちに対峙させて考えることが何を生むのかと反論したい気持ちではないか。勿論私の勝手な想像なのだ。
 全米日系人博物館はなぜ、こうした活動を経団連の後援を得て、国際交流基金日米センターと共催で行うことに踏み切ったのだろうか。それは日本の財界と繋がっておくことによって日本の政界にまで繋がることができるという読みだったのだろうか。Japanese Americanという米国における小さなethnicity集団がその母体たる文化との繋がりを保ち、その母たる文化を切り捨てることなくその歴史を構築し続ける上で必要なのは草の根市民レベルでの交流ではないのか。確かに、活動基礎を確固たるものにするためにはこれ以上ないコンビネーションであるのは確かだけれど、本来的市民の価値観に基づいている活動となっているのかというと、疑問点が残る。なんだか、海外で駐在員を中心とした、いわゆる「日本人会」活動と同じような匂いを嗅いでしまうのである。
 聴衆の中に自民党河野太郎を見付ける。

 そんなことを考えながら経団連会館前に停められたレセプション会場行きのバスを横目でみて、OAZO丸善にむかいながら、そういえば第二次大戦中のinternmentでの苦しい生活の中でJACLを中心として二世の復権に努力し、戦争に行って日系人の地位向上に頑張った人たちについては多くの著作が著されているけれど、その反対方向にいた人たちは、その後どうなったのだろうかと考えた。その気持ちを持ったまま丸善の3階の棚に向き合うと、そこに驚くような書籍をみた。

アメリカ日系二世の徴兵忌避―不条理な強制収容に抗した群像

*1:政務担当審議官は先日ビルマのラングーンでの折衝に出かけた藪中三十二で、彼らは外務省の官吏としては事務次官の次に位置する出世頭である。

*2:1943年兵庫県生。1966年東大法卒。インドネシア大使館、アメリカ大使館、北米局安全保障課長、北米局北米第一課長、軍縮会議日本政府代表部、オーストラリア大使館公使、報道・広報担当審議官、英国日本大使館特命全権公使、外務報道官、パキスタン特命全権大使、沖縄担当大使、カナダ大使、本年4月から国際交流基金日米センター所長。沖縄大使というのは沖縄と政府、米軍との橋渡し役として1997年に創設されたが、2004年に4代目沖縄大使であった沼田貞昭が離任に際して発表した「県民へのお願い」の中で、「米軍に常に抗議するのではなく、双方通行の対話をしていただきたいという気持ちを持っている」「在日米軍人は日米安保条約のもと、日本とかアジアの平和と安全を守る使命をもっており、必要が生じれば自らの生命を危険にさらすことを覚悟している。彼らの立場に思いをいたしてほしい」と述べたことから、当時の稲嶺恵一沖縄県知事から、その使命があればこそ「日本全体の問題として基地問題を考え、沖縄の負担軽減を図るべきだ」というのが沖縄県の論理だと強く遺憾の意を表された(朝日新聞2004年12月11日)