ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

19年前のこの日

 あれからもう19年もの歳月が過ぎた。あの日も昼間は良い天気だったと記憶しているのだけれど、はたして本当にそうだったかどうか自信はない(過去の天気データーを見ると当日は曇り、翌日は雨だけれど2月にしては異様に暖かい日だった様だ)。午後5時頃に事務所で煮詰まってきていたら誰かがロクに映らないテレビを見ながら「ドックが火事みたいだぞ」という。ヘリコプターからの実況中継画面が映っている(らしいがよく見えない)。煙が見える。まずいことになっていそうだ。慌てて総務に連絡を取り、職場を放棄してタクシーでドックへ向かう。ヘルメットだけは持っていたが自分の荷物は全部事務所に置いてきたままだ。ドックに近づくと黒い煙が上がっているのが見えている。すでにこれだけ煙が上がっているということは相当にまずい状況だ。
 三階建ての事務所の一階は現場の管理部門がいる。二階がマネジメントの事務所で、三階が会議室や監督官室になっている。三階の大会議室を開けて貰って、一階にもう既に入り込んでいるマスコミの人たちに上がって貰う。彼らはあっという間に電話会社に連絡をしていて、すぐさま大会議室は取材本部に変身した。当時だからまだパソコンを持っている奴もいなければ携帯電話もない。彼らは電話とファックスを整備したのだ。
 現場はもう中に立ち入れる状態ではない。消火作業をしたら、未だ生還していない作業員、乗組員がもしまだ生命を維持していたとしても溺死してしまう。外板を切り欠く作業を実施するのか。
 最初の記者会見を実行できたのは午後8時であった。爆発してからすでに5時間が経過していた。顰蹙を買ってもしょうがない様な空白時間だ。どうして良いのか分からないというのが実態だったといって良いだろう。その頃から外は雨が降り始めた。どうやって空腹を満たしたのか、全く記憶がない。会見が終わってもなにしろ社会部の記者達は船の構造がどうなっているのか全く知らないのだから質問は簡単には終わらない。一般配置図を持ってきて説明しても上のデッキと下のデッキの位置関係が即座には呑み込めないのは無理もない。その上、地元の警察やら労働基準監督局に呼ばれたりする。一度ちゃんと現場を見ておかなくてはとドック・サイドに行くが小糠雨の中にコートも着ずにいっていたのだけれど、寒いと感じた記憶がまったくない。病院の医者が誰かが救出された時に備えてドック・サイドに待機してくれている。
 日付が変わりそうになって消防署の会見がある。まだ結論が出ない。夜半過ぎにまた会見。ほとんど進展しない。ほとんど絶望だ。どう考えてもこれだけの時間が経って生還できるとは思えない。こんな状況になるとそれぞれの人間の「人間性」というものが浮き彫りになることは想像が付いていたけれど、本当にその通りだった。4時前に鎮火の報告とともに犠牲者の正確な数字が上がる。大変なことになったことが分かる。それぞれ手分けをして対処にあたる。悲痛な会見がもたれる。それぞれの人間が一番大事だと思っていることがこんなに違うことに愕然とする。冷静と冷淡をはき違えている人間がいることにも気が付く。
 空はどんよりと重たい雲が覆い尽くしていて小雨が降り続く。仮安置所になった工場の建家の入口の観音開きの灰色の扉が開いて、何台もの長い車が次々に出ていく。司法解剖のために大学病院に行くことになったのだ。
 現場の担当者は私が来た時から一度も顔を見ていない。警察でヒヤリングされているというのだ。どうやら原因が推測で語られ始める。しかし、公式の見解ではないから第三者に伝えるわけにはいかない。そうではないだろうかという話に過ぎない。
 ようやく解放されたのは事故発生翌日の午後8時頃だったから27時間ほど詰めていたことになる。気が付くとまだ小糠雨は降っていてしかも自分の事務所からコートも持たずに駆けつけてしまったので、帰りの駅までの道は傘もなしだったことを思い出す。なにもできずに誰一人救い出すこともできないまま、手をこまねいているしかなくて、そのまま12人もの命を失ってしまったことの徒労感はそんな運河に沿った狭い一本道をとぼとぼと歩いたことを思い出すくらいでは済まされない。
 発生から一週間ぐらいはほぼそのまま現場も押さえられ、仮設取材センターもそのままにして、私は仕事を放り出して詰めていた。

跡形もない

 19年となる時間が過ぎ去った今日、この日には必ず現場をこの足で踏んで当時のことを忘れない様にしたいと思っていた。13年も前にあの設備は全部閉鎖され、一昨年には全くその跡形も見ることも出来ず、数十階建ての超高層集合住宅が何棟も建っている。今でも新しい棟が建築中だった。当時あの現場に行くには入口手前の右側にあった胡麻油の工場からの良い香りがつきものだった。しかし、その胡麻油工場も奥の海側に引っ越して最新式工場となっているのだそうだ。海に突き出た先端にいってみると目の前を通る道路を建設中でそのはるか向こうに見えているはずの横浜ベイブリッジや、ランドマーク・タワー、MM21方面の景色を分断していた。
 こっちもあっちも景色は大きく変わっていく。変わっていないのは東側の運河だけだ。こうしてここの一角に暮らしている人たちはその近代的な区画を快適と感じるのかもしれないが、実はこんな歴史が埋まっている。そしてこんな出来事は跡形もなく消えていき、そのひとりひとりの犠牲者のことを思い出す人はここにはもう誰もいないのかもしれない。