昨日の演芸場での誰かの話じゃないが、近頃の通夜というものは「通夜」ではないのが現実だ。昨日の友人の話を聞いていると市営の斎場では通夜は許されていない。あ、いや、正確な意味での、伝統としての意味での「通夜」は許されていないと今いうのだ。つまり、伝統的にはなくなった人が本当に亡くなったことを生物学的に確認するためにも、そして残された人々が自分の中での訣別に決着をつける意味でも自宅で亡骸を前に夜を徹して語り合ったわけだ。しかし、都会では今はもうそんなことができる人たちばかりではない。だから亡骸をその公営、あるいは私営の施設に一晩預かって貰ったりすることになる。そんな時、亡骸は寂しいんだろうなぁというのは生物学的な解釈では正当ではないのだろうかねぇ。しかし、友達が亡くなった時には酔っぱらった挙げ句にそいつの話で泣いたり、怒ったりしながら偲んでやりたいなぁ。
実は昨日、学生時代の友人の一人が突然打ち明ける。友達の一人が昨年死んだというのだ。今更なんだよ、なんで俺にその時に教えてくれなかったんだと迫るが、何かあるらしくてはっきりしたことをいわない。そいつのかみさんも結婚前に私は知っていた。彼は親の代から山手線の駅の直ぐそばで上品で美味いけれど値段の高いおでんやを賄っていた。遊びに行きたかったけれど、そのお代が高くて一二度行っただけだ。店の常連さんにだけお知らせをしたといっていたけれど、そりゃなんとも切ないねぇ。少なくとも私は彼と、彼のかみさんのファンだったのになぁ・・。そういうわけだから人が亡くなったら広くあまねくお知らせをして頂きたいものだ、といつも「私が死んだら誰にも知らせないで荼毘にふせ」と私に言い張る連れあいにいったんだけれど、なんのコメントも得ることができなかった。