ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

人の所為(せい)

 私は人生の節目を人の所為にするいやなタイプである。自分が決断したのにもかかわらず人が示唆した言葉をいつまでも覚えていて、それが私に影響を与えたのだと自分の心で言い訳をして自分は悪くないのだというタイプである。高校生の頃、英語をマスターすることが面白くて仕方がなかった時期がある。とはいえ、そのきっかけは実は母親が勝手に決めてきた英語の塾なのだ。だから高校の後半に差し掛かってなんだか面白そうな遊びの世界を垣間見てしまった時にはこのマメに行かないと終わらない塾が面倒になって「俺が選んだんじゃない、親が決めてきたんだ」という理由で止めようとした。ところがここの塾のもう既に老年の域に入っていたであろうあの先生はこういう生徒には慣れていた様で、話しているうちに知らず知らずにまた頑張るという気持ちに私はなっていた。とまぁ、ここでも自分の意思でやめることを止めたのではなくて先生の説得力の所為にした。面白くなってきたものだから、当時英語をマスターすることばかりに熱中した。そのまま英語をメジャーとするコースに進学すれば良かった。ところがなんだか普通に経済の学部に進学した。父親が英語なんてメジャーにしたって喰っていけやしないんだと宣言したからだ。ここでもまた舵の棒を自分以外の人間に渡してしまった。いや、正確に云えば渡してしまうことによって自分は責任をとろうとしなかったということだ、自分の人生にもかかわらず。
 それでもそのおかげで本当に多くの友人に恵まれて、多くの自分が知らない世界を覗くことができたのだからそれはそれで自分の人生の礎とすることができたのだ。しかし、こんな時には「あの時の父親の言葉のおかげだ」とはいわない。この辺がどうも調子よい。
 長ずるに及んであの時あんなにマスターしたいと思っていた英語をもっと真剣にやっておけば仕事ももっともっと面白かっただろうし、あんな失敗をしないでも済んだのにと気づきはじめていた。だから、実際には他のテーマを持っていたのだけれど、英語をとことんたたき込んでくれる状況に自分を置いてみた。本当に一年間あれだけ英語漬けになったのはこれまでの人生にはなかったといって良いだろう。ところが遅れて造り出した完璧な環境で私が気がついたのは何かといったら、こうした才能というのは開花させるには若ければ若いほど完成度も高く期待ができるということなのだった。多分どこかで教育学か言語学の研究をしている人がこの辺のことは論文にしているのではないだろうか。もしくは結局私にそうした才能がないんだということだったのだろうか。
 しかるにこうしたことに気付くことができるのは私の様な凡人には時間がかかりすぎる。60年かかったとはいわないけれど、気付いた時にはもう取り返しがつかないというわけだから人生というのは多少酷なところがあるといっても良いだろう。それでも取り返そうという行動を何らかの形でとれる状況にいるということ自体がもうすでに大いに恵まれているということだと云うことにも気付かないわけに行かない。経済的にも、そこを出発点にする時間の問題にしても実際に取り返すことは甚だ難しいとしても、取り返す気力を持てることすら今の時代にはそうおしなべて存在する物ではないのだ。
 にもかかわらずここまでずっとなんかしら誰かの所為にして暮らしてきたことに、うすうすは気付いていたものの、こうしてぽんと放り出してみると辛い。まぁ、大した辛さじゃないんだけれど。