ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

Strahan → Stanley

テレビ

 どうやら昨日のクイーンズランドのストームはとても大規模なものだったそうで、今朝になってもブリズベン近郊では停電が続いているようである。なにしろ実に激しい雨と雷だったらしくて大粒のヒョウまで降ったようだ。確かに10年前でも春先から夏にかけて時としてとんでもないストームが襲ってくることがあって、これが一概に豪州に関して「この時期のこの地域の天候はどうですか?」と聞かれて容易に答えられないポイントなのである。しかも下手に断定してしまうと後になって、「全然違った」とクレームを貰ってしまうというくらいだ。今朝のStrahanは寒く曇っていると思って外に出ると霧雨が降り続いている。これではGordon River Cruiseに出る人たちは寒くて辛いかも知れない。

山の中を走る

 Strahan Villageをチェックアウトすると宿泊費を払ってくれという。あれ!Expediaで払っているはずだよというと「いや、もらっていない」と昨日チェックインの時に「一泊だけなの?」と聞いたあのしっかり者がそういう。印刷してきたバウチャーをチェックしてみるとなぜか知らないけれど、予約はconfirmされましたとは書いてあるけれど、credit card transactionは終わっているとはどこにも書いてない。「私の勘違いだったよ」というと彼女はとても丁寧にお気をつけてねという。オージーはこっちが主張するとがんがん張り合ってくるけれど、素直に認めるととても素直に対応する。この辺があんまり腹芸のないところだ。あくまでもこれは表面的なことだし、いろいろな人はいるんだけれどね。
 途中のZehanまでは確実に10年前に走ったと同じルートを走る。すぐにまたチラチラと雨が降ってくる。この島にはインド洋を越えて湿気たっぷりの偏西風が吹き付けるわけだけれど、それが真ん中の山々にぶつかって雨を降らせる。だから、Cradle Mountainあたりもそうなのだけれど、山に近いところでは殆ど毎日雨が降る。それは日本の梅雨時のように一日朝から晩までじとぉ〜っと降るわけではなくて、シャワーのように降ってはまた止むという感じだ。だから10年前に来たときに全く降らなかったというのは結構珍しいのではないだろうか。今日も降っていたけれど、北に上がるにつれて青空が広がってくる。
 Wynyardに向かう道に分かれてから一気に周辺の樹木が植林されたものになってくると同時に原生林を皆伐した跡がどぉ〜んと広がっている様があちらこちらに見えてくる。こうした地域はなにも施されておらずに切り落とされた枝がまるで骨のようにあちこちに積み上げられている程度であたかも死に絶えた地域のように荒れた姿をさらしている。10年前に来たときよりももっともっとその皆伐地域が広がっているように見えるのは私の見間違いだろうか。そしてよく見ると、道路に面している古木はそのまま残されているのだけれど、その木々の隙間から向こうを透かして見るとすっかり伐採されているという地域も結構気がつく。これが意図的なのか、結果的にそうなっているのかよくわからないけれど、漫然と走っているだけでは余り気がつかない。なにしろこのあたりを走る人たちは70-80km/h位で走る人がゆっくりなくらいだからだ。

海岸に出る。

 Wynyardに近いあたりで木材チップの積み出しジェッティが見える。それ程大きくない船が一隻着岸しているのを見ると積み出ししているのかも知れない。しかし、沖合に待ち船が泊まっているわけではないからそんなに積み出しがあるわけでもなさそうだ。
 実はこの辺までやって来てさすがに疲れてきた。あっちで停まって写真を撮り、こっちでも停まって写真を撮っているうちに4時間以上を掛けて走った。それでも最終目的地のStanleyまではまだ50km近くある。がんがん飛ばすけれど、なんだか精神的に麻痺してきているような気がして、窓を開けて走る。すると前のトラックがブレーキを踏んだ。何かと見ると前方の道路は工事中でガタガタだ。とてもゆっくりになって後をついていくと向こうから工事関連車がやってくる。すれ違いの瞬間、それが水を撒いている車だとわかったとき!には時既に遅く、慌てて窓を閉めるがその水を被る。誰かが見ていたら大笑いのところだったけれど、しょうがないなぁとひとりで笑う。

景勝地The Nut

 Stanleyになぜ来たかったのかというと、10年前は北岸の街にはBurnieから東を走っただけなのだ。もっと西を見たかった。そして地図上で探したのは海に突き出した変わった半島にあるStanleyだった。ところが来てみるとなんと言うことかそのつき出した丸い格好をした半島は台形をしていてかなりユニークである。近くまでいってみるとスキー場にある二人乗りのチェアーリフトが動いている。往復でしか切符を売ってくれないが大人ひとり10ドルである。台地の上をぐるっと一周するのには45分ほどかかるといい、リフトは午後4時45分には終わってしまうというから結構早めについておいた方がよいだろう。結構急激に登るリフトであっという間に後ろを見ると怖くなるほど高いところに上がる。天気は完璧で景色は全部が見えている。さっき横を通ったジェッティに泊まっている船もよく見える。ちょっと端の方に歩いていくと足下を何かが走った。なんだかわからないけれど、そこらにたくさん開いている穴に走り込んだようで、ネズミくらいの大きさだった。そろそろ心配になってリフトの方に帰ろうとすると茶色のアメリカン・ショートヘアーの様な模様の猫と目があった。彼(彼女からも知れないが)は逞しくここで生きているようだ。
 下まで降りて、買う気もないのに土産物屋を見て歩き、最後に街の小さなスーパーで明日の朝用のサラダの葉っぱの袋詰めと、ドレッシングを買う。おじさんに「プラスティックのフォークはない?」と聞くとセットになっているものを教えてくれたけれど、「何本いるんだ?」ときく。私の一本だけだよというと、「じゃ上げるよ」とくれた。
今日の為替レート:ABC19時のニュースによると62.56円
 私が持っているひと版前のLonely Planetによるとどうやら今日泊まる「Stanley Seaview Inn」はかつては「Dovecote Motel & Restaurant」と呼んでいたもののようである。このレストランも今は「Nut View Restaurant」という名前になっている。良くあることのようだけれどここの料理人は日曜日と月曜日がお休みなんだそうで、今日は「日月メニュー」となっているけれど、スペシャルというのがあってそれが「鶏胸肉のほうれん草詰め」だった。それがご飯の上にのって供されるというのでそれにしたら、クリームソースが美味しくてそのご飯(もちろん長粒米)にもあう。昨日のことがあったので、今日はこれだけ。小さな街中のレストランも殆どが水曜日から日曜日の営業というところが多くて月曜日はこうした観光地はあんまり来てはいけないのかも知れない。

そうは問屋は降ろさない

 Stanley Seaview Innでは宿泊客のためのdirectoryを読んでいるうちにWi-Fiが繋がると書いてあって望外の展開に快哉を叫んだところまでは良かったのだけれど、実際に立ち上げてみると接続のレベルがあまりにも低くてちゃんと機能しない。これではなまじない方があきらめがつくというものである。
 今回これまで泊まったどのホテル、モーテルにもなかったものがここにはある。液晶のテレビなのである。ところがよく見ると残念なことに1ヶ所だけ液晶の抜けがある。こんな一流メーカーがと思ってよく見るとなんと「Palsonic」と書いてある。ちゃんと意味があるそっくりさんの名前で思わず「うまい!」といってしまう。
 昼間の車の中でABCラジオのニュースによると、日本が南氷洋の調査捕鯨を行うという決定をしたと伝えていて、それに対する反対の意見を告げていた。日本の捕鯨は試験操業だということだが実際に試験的な操業なのかどうなのかを証明するための科学的調査の根拠を公表するべきだという話と、豪州のカウンター・パーティーが日本が実施している調査が正しいのかどうなのか同じような科学的根拠を提示しようといっている話だった・・らしい。ちゃんと聴いていなかった・・・。

John Howard

 ABCの「Howard Years」が放送された。1996年から2997年までの10年間を首相として過ごしたJohn Howardの時代を関係者のインタビューと再現フィルムで綴っている。日本ではこんな番組ができることは滅多にない。退任すぐにはできないだろうということもさることながら、日本ではこんなに長いこと政権を握るということそのものがあり得ないだろう。これをどこか日本のテレビ局が日本でも放送しないものだろうか。近々に公開 されると宣伝している映画「Australia」には日本軍によるダーウィン空爆も表現されているそうだ。これも日本で公開されないだろうか。
 1996年にタスマニアのPort Arthurの銃撃事件が起きたのはJohn Howardが首相の地位に就いてから僅か8週間後のことだったとテレビが想い出させてくれた。非常に衝撃的な事件で彼は一気に銃規制法にまで持って行った。しかし、農家からは大変な反対を受けたはずである。日本人から見るとそんなの当たり前じゃないかという感覚だけれどもこの国の隔離された地域に暮らしている人たちから見ると農場を守り安全を守るのは自分でしかないという価値観から外れていることになる。そうしたところにポーリン・ハンセンがタイミング良く登場した。しかし、この時国粋主義白豪主義を思い出せと言う彼女の時代外れの主張をJohn Howardは言下に否定しなかった。これが後々まで引きずることになる。
 そういえば彼が首相になってからだったが、労働組合の支援スト(他の企業の組合の要求活動を支援するために行うスト)が禁止されてすっかり石炭産業の現場のストが減ったものであった。
 さて、明日はどこに泊まろうかなぁ。