ほぼ足りてまだ欲 その先

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高校の英語

 今度は文科省が高校の英語を英語で教えるという方針を明らかにしたらしい。えぇ〜っ!ほんとぉ〜!?
 私が高校生だった頃、有り体に言えば45年ほど昔のことだ。私たちに英語を教えてくれた先生が3人おられた。そのうちの一人、松井先生が、一学期が始まるやいなや、英語で教えはじめていた。こんなことをいうとちょっと生意気なようだけれど、私は英語を学ぶことがとても好きで、上手く発音できるようになりたいと思っていたし、うまく喋れるようになりたくて、一年生の時にEnglish Speaking Societyに入部したくらいで、おかげで一枚上にいったような気がして嬉しかった。
 しかし、それをそのまま受け入れることのできない生徒がたくさんいたので、途中からその先生は諦めた。私はとても残念だった。しかし、それから35年経ってから入り直した大学では一年間、本当に英語だけの授業だった。その覚悟ができていた学生ばかりだったから一年の間、頑張ることができた。若い同級生たちは本当に真剣だった。だからこそ私も頑張れた。
 そこまで学生の覚悟と、それを教える外国人の先生方の真剣な取り組みがあって、初めてできたことだ。
 今の日本の高校の英語の先生が皆さん、それ程の真剣な取り組みができるだろうか。ましてや生徒がその準備ができるだろうか。ということは中学から、そして高学年に英語を教えることになる小学校の先生方にそれだけの取り組みを準備できるだろうか。今回の文科省の考え方はそこまで現場を考えているのだろうか。この点がはなはだ疑問だ。英語教育を研究している大学の先生方のご意見をお伺いしたいと思う。

 私はそこまでやるんだったら、ひとつ上のレベルをやりたい生徒たちのためのクラスをつくったらいいじゃないかと思う。英語の授業の日には英語での授業を希望するクラスをつくる。そこで教えるのは、現在でも行っているJETプログラムで英語圏の国からやって来ている若手補助教師を当てるが、今のようにワーキング・ホリデーのような教えるということをマスターしていない若手では足りないことは云うまでもない。そうかといって実際の話、今の高校の英語教師全員には英語で教えるなんてことは期待できない。
 しかし、それもこれも費用がかかるし、各紙が指摘しているように入学試験が直結していない限り、この国ではそちらに動くことは決してあり得ない。英語で教えるべしというのは実はとても「ゆとり」がなくてはできないことだ。

 なんで「ゆとり」教育がいけないってことになってるのか、未だによくわからない。