ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

「孤独死」はそんなに大きな問題か

 日経ビジネス2月10日号電子版に吉田鈴香というひとがこんなタイトルで書いている(こちら)。もちろん先日のNHKの「無縁社会」という番組に対する意見だ。
 極論をすると彼女が書いているのは「現実に厳しい生活を生きている人にとっては、正直を言って、生きることが重要であって、死に方などどうでもいい」ということであって、「自由が生んだ一つの結果」だというのである。

 「死とはこうあるべき」「理想の死に方」と決め付けるのは、人間を差別する。それに適わなかった人間をはじくメカニズムだからである。上から目線の「縁」なのである。

 型に嵌めるのはおかしい、それじゃ全体主義的であり、偽善的だといっておられるように私には読める。人がどんな「縁」を求めようと、どんな死を選ぼうとそれは本人の勝手であって、それよりも何よりも大事なのは「如何に生きるのか」ということなんだという。
 大事なのは「如何に生きるのか」である、ということについては私は全く異論はない。しかし、この番組の趣旨はそこではない。年間に3万人を超える人々が孤独死をしているというその背景だ。
 とりあげられていたのは、ここで取り上げられていた数例についていえば、「自ら選んで」そのような境遇になったというよりは、「そうせざるを得ない結果」そのような境遇になった方たちだったのではなかったか。
 この方が「縁のあった社会」として仮定している時代は「そもそも、移動の自由がなく、女性はイエに閉じ込められたままで、農村の中での相互監視が行き届いていた時代」をいっていて、「であれば、一人寂しく死ぬことはないかもしれないが、その代わり、自己決定権もない」である。
 「縁」は支えでもあったけれど、縛りでもあった、という表現であれば、それは正しいのかも知れない。固縛された縁をばらばらにすることによってそれまでの因習からすべての人が解放された。
 しかし、その結果孤立した生活に陥る人が発生したということの成り行きを無視して良いとは思われない。そうした「生き方」となっていった結果として迎えざるをえなかったのがここでテーマとされた孤立した死である。
 こんなことをいったら議論にならなくて、突きっぱなしになってしまうけれど、元気なとき、多少の不安があっても動ける間はそんな「縁(えにし)」なんてうるさくてしょうがない。できることならなんのしがらみもない、周りに誰も自分の過去、生い立ちを知らない、従って縛られることのない地域でゼロからやっていきたいと何度か思う。
 しかし、人生の残りであと何回ご飯を食べられるだろうかとカウントダウンに近いことをし始めるようになると、全く状況は変わる。
 その時に、どう感じるのだろうかということは人生の中でも大きなポイントだろう。そしてここで語られていたのは「如何に死ぬか」ではなくて、そこに至ってしまった「孤立した生」だろう。番組で語っていたのはこの方がいうようにまさしく「如何に生きるか」だったのだ。
 「ありとキリギリス」の寓話は人生の永遠のテーマだと思う。「好き勝手に生きて来ちゃったんだから、そりゃしょうがないよ。自分の責任は自分でとるしかないよ」という「自己責任」論は強者の論理だろう。