ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

単純

 私は1947年生まれで、まごうことなきいわゆる「団塊の世代」だ。この年に生まれた連中を始めとして、それ以降のおよそ3年間位の間に生まれた連中の人口が前後の生まれの人たちと較べて驚くほど多いのは事実だ。この3年間に生まれた人口はおよそ806万人だとウィッキペディアがいっている。
 私が通っていた公立中学では私が3年生の時に1年生が14クラス、2年生がやはり14クラス、そして私達3年生が16クラスで、各クラスに55名ほどいたから全部で2000名以上の生徒がいたことになる。バスケットボールのコートが2面できる体育館があったのだけれど、全校生徒会を開催するのには小さすぎ、しょうがなく、全員が自分の椅子を持って校庭にでて、青空生徒会を開いたことを今でも憶えている。
 堺屋太一がこの806万人をひとかたまりの「団塊の世代」として命名したことから、ベビー・ブーマーと米国で表現されていた人たちにそういうラベルがついた。そしてこの806万人を十把一絡げで捉えようとする傾向は確かにこの半世紀続いてきていた。
 今、ネット上で議論をしていると、必ずこの「団塊の世代」と今の若者世代との置かれた状況の比較があっちでもこっちでも意識されている様子が垣間見える。
 例えば原子力発電についていくら「廃棄物を処理することに全く目処が立たない技術は利用するべきではない」という主張をしても、「その技術を実用にすることに踏み切った団塊の世代に責任がある」という表現がされる場合を見ることがある。大阪の橋下徹知事はこの原発について「これは世代間闘争だ」といった。
 これはあまりにも単純な表現でイライラする。どの世代にも様々なスタンスをとる人たちがいるのが当たり前なことで、そんなことは簡単に誰でもわかることなのに、それを敢えてひとかたまりで語ろうとするのはなんでなんだろうか。
 わが世代は人生の前半40年ほどをまったくの右肩あがりの社会の中で育ってきた。だから、いくら金がなくてもそのうちどうにかなるような期待をしながら暮らすことが当たり前だった。しかし、その裏にはエスタブリッシュされていた価値観や仕組みに乗っている限りにおいて、であるという限定意識を持たされていた。それに対して反発するある種の力が60年代に醸成されてきたのだけれど、取り敢えず乗るところに乗っておけば暮らしに困ることがなさそうだという空気がまだまだ支配的だった。有り体に申し上げれば、私はまさにその「乗っておいた」人間だ。
 それがひょっとするとおかしいことが起きるかも知れない、打開できないのかも知れないという不安を抱かせるようになったのは「エネルギー危機」といわれた化石燃料、それも石油の供給に関する不安定感だった。石油の備蓄基地を建設するというところまでにまで至った。ま、これは重工業界がいわゆる「プロジェクト・ファインディング」としてプロモートした結果であるという傾向がないわけじゃない。
 ところがある意味ではその反動という捉え方ができるかも知れないけれど、土地を入手して売り払えば美味しい眼を見ることができるという非常に乱暴で、原始的で、知性のかけらもない、虚業をもてはやす政策をとることで濡れ手に粟を楽しんだ政治時期があって、何が何だか分からないうちにわぁわぁ、ぎゃぁぎゃぁ、金を乱暴に扱うことが「男のやりがい」だなんて風潮があったことは事実だ。
 「世代間闘争」と捉える向きは、そんな社会状況を過ごしてきたくせに、今になってまだ社会保障のシステムの恩恵を受けていることは怪しからんという風潮にあるようだ。
 実態を冷静に見て見ると、この3年間に生まれた806万人がそうしたターゲットに相当するのかといったら、私たちは実は情けのないことに、この半世紀の流れの頂点には常に遅れ続けていたといっても良いだろう。流れの中で常に後塵を拝しながらやってきた。
 では、流れの先端をきってきたのはどの「世代」なんだろうか。簡単にいってしまえば、実はそんなものは明確には存在しない。なぜなら社会は連続しているからだ。つまり「世代」として捉えようとすることはほとんど意味を持たない。じゃ、なんで「世代間闘争」という言葉があちこちで使われるのか。
 先行する世代が創り出したシステムに後から続く人たちが縛られてくるのは仕方がないというか、これは連続して存在している社会にとっては当たり前のことだ。じゃ、既成のシステムによって後から続く人たちが先行する人たちに較べたら不利になる場合、この不満はどこにぶつけていくべきなのか。それは今現在このシステムを固持するエスタブリッシュメントに対する改革要求をし続けるべきだということではないか。
 そんなわかりきったことを変革できないのはどうしてなのだろうか。今や、空身の余裕がない人生を送らざるをえないシステムはどうしてこの社会を支配しているのだろうか。人をないがしろにしても構わないという倫理観、道徳観が醸成されてきてしまったのはどうしてなのだろうか。
 効率主義が世の中を振り回しているということなのか。じゃ、そうした価値観を創り出したのは、そして受け入れているのは一体誰なんだろうか。それは「世代」で区別することができるのだろうか。そんなことをできるわけがない。それよりも今のこの地に落ちた厭世的な価値観、道徳観を取り敢えず建て直すことからやらなくてはならないのじゃないのか。
 それでも「世代」ごとの責任というものを議論する必要があるのか。そしてこの「世代」の間にある責任を果たす、果たさせる仕組みが必要だということなのか、そしてそれによって何が解決されるのだろうか。