ほぼ足りてまだ欲 その先

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暴力・もしくは暴力的行為

 体罰があっちでもこっちでも論議されるようになってきた。教育の現場で「暴力」があることについてはもういい加減どうにかならないものだろうかという思いがある。ところが教育の現場だからこそどうしても理解できない子どもに「痛み」を象徴する形で「身体でわからせる」という思想はまだ根強く存在している。客観的に見てこの考えを語る人は少数派のように思える。しかし、私たちの社会にはかなり長いことそうした思想が残っていて、これが習慣化していたのではないだろうかと思える。
 戦争中に軍隊の中で暴力が日常化していたことは多くの元日本軍兵士によって語られている。いや、それだけではなくて、かつての日本軍による捕虜だった連合軍兵士の話を聞くとそれは「敵であれば当然である」という敵視を伴う暴力の中に存在していた。それがそのまま戦後の社会には蔓延していたといって良いだろう。
 私は中学以降体育会系の部活動をしたことはないからそういう立場に身を置いたことはないけれど、そういう現場ではそれは当たり前だと思っていた傾向がある。例えば大学の応援団なんていう集団では多分上下の規律というような言葉で表されていたのかも知れないけれど、多くの人たちはその内部ではそういうものが内在していたんだろうと当然の如く思っていた傾向がある。で、自分をそんな立場においておくことが一種のアイデンティティになってしまっていたのではないかという思いを抱く。自分にもそんな傾向の下地が転がっていたのではないかという疑念もある。
 この点でも私たちはあの戦争を機に見つめ直すということをしないまま、戦後の半世紀以上の期間をあたら費やしてしまったのではなかろうか。「自虐史観」という歴史を見つめる視点としては異常とも思える名称をつけてしまって「反省」という言葉をどこかの隅に追いやることによって、正しいことを正しいと判定する下地を放棄してはいないだろうか。