ほぼ足りてまだ欲 その先

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 今朝の雰囲気も景色も殆ど冬だ。ラジオで聞こえてくるのも東北信州は雪だったという話、関東も霜がざくざくだという声。もう4月も下旬に入っているというのにこの始末。桜を初め花の類はとんでもなく早く咲いているというのにこんな時期にまで雪。そんなに珍しいわけでもないのかも知れないけれど、3.11以来、なんだか変だなぁと感じる。
 九段の靖国神社で春の大祭というものが行われていて何人かの現役閣僚が大臣という肩書きで、あるいは国会議員の肩書きで記帳して参拝したと記事になる。
 おかしな話で、宗教施設にお参りしたことがわざわざこんな記事になる国というのはあんまりないだろうという気になる。ドイツには宗教を謳った政党だってあるくらいだし、アメリカだったら事件があったら必ずキリスト教の施設で追悼集会が開かれたりして大統領がそこに来る。キリスト教団体が選挙に大きな影響を及ぼしていると報道されたりする。それなのに、どうしてこの国では神社にお参りするのにわざわざ気を遣ったり、日頃から何がいけない!といっていた人が首相になるやいなや、行かなくなったりする。外国から余計なことを云われる筋合いなんてないじゃないか、というもののいい方が通用する様になったのは一体いつ頃からだろうか。
 靖国神社というのはそもそもなんなのか、そこに祀られている人たちが一体誰で、どんな理由でそこに祀られているのか、そしてそうされることがどんな効果を上げていたのか、ということが段々語られなくなってきていないだろうか。
 それと同じように、自公連立内閣に戻るやいなや日本国憲法をかえようじゃないかという動きが大っぴらになってきた。別に天から授かったわけでもあるまいし、戦争が終わって相手から押しつけられて、断ることができない状態で制定されたものだから、見直して当たり前じゃないかといういい方がされる様になってきた。時代が変わると同時になんでも見直されて当たり前だといういい方がされる。だったら昔に戻るというやり方だって間違っていると云われて納得しても良さそうな気がするのだけれど、そこはそうはいわれない。それと同時になぜこの日本国憲法ができたのか、当時はどんなことを考えてこの日本国憲法ができたのか、何を理想にしていたのか、替えるのだとしたらその理想がどう変わってきたのか、それを語られずにいるのではないだろうか。
 洗脳という行為は実に卑劣なもので、概ね恐怖を伴う洗脳が世の中を良くした試しがないことは歴史が明白に証明している。