ほぼ足りてまだ欲 その先

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一緒にするな

 既に他界して15年以上経つ、連れ合いの両親は義父に兄がいて義母に姉がいる。その二人も夫婦だった。田舎の当時の話だから社会が狭い。私の両親だってちょっと離れてはいるが親戚同士だったそうだ。
 で、その兄・姉夫婦は戦争末期に既に三人の子どもがいたのに兄旦那は召集された。末の子どもはまだおなかの中にいた。それが今年70歳になるそうだ。そのまま南方にいったというのだけれど、再召集だったのかも知れない。帰ってきた時は白木の箱の姿で、姉妻に聞くと骨はひとつも入っちゃいなかったそうだ。多分、回収できない、あるいは死んだことは確かだけれど、死因が戦闘によるものではなかったのかも知れない。当時は中に髪の毛が入っていたら上等で、開けたら砂や石ころでバカにするなと投げ捨てたなんて話も聞いたことがある。
 その兄・姉夫婦と弟・妹夫婦は商売を始めたばかりだったそうで、弟・妹夫婦は姉家族も一緒に抱えて商売を支えた。戦争直後で商売だって成り立たない時期だったから、東京都のいわゆる汚穢(おわい)船に乗り組む仕事までやったと本人から聞いたことがある。今じゃとても想像ができないけれど、汲み取った糞尿をだるま船に載せて東京湾の沖にいって捨ててくる仕事である。人がやらない仕事は給料が良いからだといっていた。田舎にいた親戚の子どもたちも東京に出てきて一緒に商売をした。当時は狭い店舗兼用の木造二階建てと倉庫兼用の二階建てに10数人で暮らしたというのだ。だから毎回の飯の量も半端なくて、のろのろしているとまともなものが残らないという状況だったらしい。
 45年くらい前に初めてそのうちに行った時にはもうそれぞれが家を構えて外に出ていたから家族だけでその店舗兼用の木造二階建てに暮らしていたけれど、週末の夕飯になると店の連中も入れて麻雀をやるものだから、その直前の飯はかつてはそうだったのだろうと彷彿とさせるような多人数飯だった。なにしろ二卓で麻雀をやる上に見物までいた。ある日はすき焼きだったのだけれど、大きな焙烙に二鍋供されたけれど、あっという間に春菊とネギだけになった。この親族と一緒にやっていくのはなまなかじゃないなと思い知った次第だ。
 義父も戦争にいったけれど、小さな人だったので兵隊が払底してきた頃になって召集されたから悲惨だったようだ。戦友会には必ず顔を出していたようだが、殆ど聞いたことがない。随分酒を飲んでいたのはそんな想い出との対話に耐えかねていたのかも知れない。
 彼らはそれでも我慢して我慢して商売をしてきたから半世紀後、人生を終える頃には孫も6人いたし、兄・姉夫婦の孫まで入れたら10数人、曾孫世代だってやっぱり10人ほどになった。
 ひとり残った姉は今年百歳になった。「戦争はいやだねぇ、人が死ぬもの」といっている。そういいながらも靖国にいっていた。今はもう足腰がさすがに辛いといっていかない。靖国にあの石ころになった旦那が祀られていることになっている。そういわれて育ったし、自分の旦那がいるんだっていわれればいくだろう。
 しかし、あそこには「すすめ一億、火の玉だ!」といわせた人たちも一緒に入っている。私にとっての義理のおばさんが不憫だ。自分の旦那にお参りにいくと、彼らにも頭を下げることになってしまうのだ。そんな理不尽な話はないだろう。