ほぼ足りてまだ欲 その先

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日常化

 学校へ行かない子というのは今や市民権を得ている、という言い方をするとおかしいけれど、かつてのように珍しい存在ではなくなってきているということを感じる。昔は「登校拒否児」といわれていたけれど、今では「不登校」と言葉は変わっているのだけれど、彼らを受け入れる機関が今では増えている。北区に東京シューレという私塾がある。学校へ行かれなくなった子どもたちの居場所として作られたのはもう30年近く昔のことだ。奥地圭子が自分の子どものために作ったそうだ。2000年にはNPO化され、2006年には学校法人を作った。自分の子どものために始めてからここまで発展させてきた力には頭が下がる。
 昨年の9月に安倍晋三がここを見学している。奥地圭子はこのチャンスを生かしたいと発言している。

本来、どんな状態の人にでも、それを支える社会的仕組みがあって当然なんです。医療や福祉がそうです。やはり「学校外」の育ちを認めず、学校へ戻そうとしてきた、そこが根本の問題です。(不登校新聞インタビュー2014年10月31日 15:56 こちら

 どんなチャンスでも捉えてできる限りの支援を引き出していくことは必要だ。それはわかる。しかし、私が持った違和感はこれを見に行った安倍晋三の真意がどこにあるのかということなのだ。というのは、彼は昔から都立の養護学校の教育のあり方に異議を申し立て、学校現場における強制的な指導の旗を振ってきたからだ。先日の衆議院予算委員会での「日教組!」ヤジを見てもわかるように、彼の教育観は非常に旧態依然であることは想像に難くない。
 翻って東京シューレのこれまでの主張は、教育現場にはいくつもの種類があって良いではないかというものではなかったのか。子ども一人一人の個性に合った教育方法の創成であり、教育の受け方の選択肢が増える事だったはずで、そのズレが知らないうちに埋まっているとはにわかには思えない。それでも、ひょっとしたら誰かの影響を受けて、彼の中で価値観の変換が起きていないとはいえない。
 教育現場の多様性ということをいうと良く米国に見られるようなホーム・エデュケーションやシュタイナー学校が持ち出されるけれど、それは多様な考え方が先にあって、その存在の受け入れが前向きな社会だから存続が可能になる。今の統制的な社会観の中でそれが可能になるのかといったら、むしろ否定される可能性の方が高い。
 日本でのこれまでの30年を見てくると、そうしたニーズが起きたから、暗中模索の中で北星学園余市が出てきたのであり、夜間中学が人知れず行き残さざるを得なかった。児童教育研究所的な機関がただの元校長の受け入れ機関だったのが真剣な対応をせざるを得なくなった。方向性が逆だった。今ようやくそれが教育の多角化へと目が広がってきているのかと希望を持たせる。
 一方、川崎の事件を見ていると、むしろ教育の現場では学校へ行けない、行かない子どもが日常化してきてしまっていることを窺わせる。今や教育の現場では学校へ長期にわたってこない子どもたちが珍しくなくなってきているのではないか。緊迫感が欠如してきているのではないだろうか。