ほぼ足りてまだ欲 その先

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東京大空襲

 あれは夜中の出来事だったという。何しろこの時期なので、多くの疎開していた国民学校の六年生たちは卒業式に備えて帰京していたので、犠牲になった人たちが沢山いたそうだ。逆に疎開していた子どもたちは空襲で家族が罹災し、孤児になったりした。B29も高射砲で撃墜されたものもあったという。無鉄砲に打ち上げる高射砲もたまには効果を上げる。
 あの時の言問橋は阿鼻叫喚、橋の上が燃えていると思ったら橋の上にいる人々やその人たちが持ち出した荷物に火がついて燃えていたんだそうだ。翌朝になってとられた犠牲者の写真を見ると、その恐ろしさがよくわかる。
 浅草区下谷区の子どもたちは主に宮城県福島県の各地に疎開していた。温泉地の旅館等に分宿している。浅草永住町にある最尊寺の息子だった永六輔はやっぱり疎開をしていた時の話を時としてするが、とてもいやな思い出となっているようである。それぞれの疎開寮全部がそうだったのか知らないけれど、清島国民学校疎開寮にはちゃんと寮歌なるものが存在した。土井晩翠校閲と書いてある。実に哀れ。それに無条件で応える小学生たちを騙し続けた洗脳を喜ぶ戦後の政治家には怒りしかない。


帝都を遙か後にして
ここ陸奥をわが宿と
思い定めて一斉に
心と身体練り上げん

朝な夕なに師の教え
心に刻み大君に
国に尽さむ大敵に
今必勝の 意気高く

 今日もそうだったけれど、浅草公会堂では林家三平の未亡人で現林家正蔵の母親である、海老名香葉子が講演をしたそうだ。彼女も戦災孤児の一人。
 焼夷弾を説明するパネルがあった。わかりやすくいうとナパーム弾である。私の世代だとベトナム戦争で使われていたのですぐわかるが、焼き尽くすための武器で、ゼリー状になった油が入っていて、これがこびりついて焼ける。今日の展示ではそれぞれにガーゼのような布がつけてあって、ひらひらと落ちてきたらしい。他の話では落下傘がついていたという説もある。いろいろな種類があったらしい。空中でバラバラに成って中から多角形の筒がばらばらと落ちてくる。これが焼夷弾。なにしろ日本家屋の実物大模型を作って実験に実験を重ねたという。
 あぁ、いやだ、もうこんな事はいやだと当時の人たちは思ったに違いない。しかし、そんなことをおくびにも出せなかった。出したりしたら、大変な目に遭った。その反動は大きかったことは想像に難くない。戦後マッカーサーの元に寄せられたおびただしい国民の声を忘れて良いのか。あのつらさを経験しなかったからといって、彼らのその声を踏みつぶして戦前復興を図る連中の無神経さをこのままにしておいて良いのだろうか。それを再確認する日である。