ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

映画館

 私が生まれ育った街には、まだ私が小学生の頃、反町東映という東映の封切館がありました。小さな小屋でしたが、いつでも二本立て。当時は一週間ごとにフィルムが変わりましたから、ニュース映画もとっても興味深いものがありました。テレビもない、もしくはできても大金持ちの家にしかありませんでしたから。そういえばうちの近所のテレビを見せて貰いに行ったオタクは東京ガスの副社長の家だと聞きました。
 その近くには二番館だったと思うのですがロマン座というのがありました。後に三本立てで35円でしたけれど、私が大学生の頃にはほとんどロマンポルノのような、大蔵OPチェーンの三本立てになっていました。最後の頃、うちの親父がこの映画館のウィンドウに貼ってあったそんな映画のスチールを見ていたといって長姉がとても嘆いていたのが奇妙に記憶に残っています。世の中の機微がよくわかっていない姉でしたから、私はそれを見て、ほくそ笑んでいたことを覚えています。この姉は私が中学生の時に部屋の奥に隠しておいたエロ本を見つけ出してなんだかんだといったことがあります。面倒くせぇなぁと思ったことも想い出しました。
 二つ電車を乗った先の駅前には白鳥座という洋画館がありました。ここではディズニーの「砂漠は生きている」を見たのが強烈な印象です。ひょっとすると俳優座の映画「森は生きている(1956)」を見たのはここだったかもしれません。この映画の中で唄われていた唄が随分長く記憶に残っていて、長らく諳んじていたものですが、さすがにこの歳になったら想い出せなくなってきました。♪燃えろぉ〜燃えろぉ〜、どんどん燃えろぉ〜♪
 仲代達矢奥さんだった宮崎恭子が出ていたのを覚えています。そういえば妹の元アナウンサー宮崎総子ももうすでに昨年2月に故人になってしまいましたねぇ。
 隣の駅には紅座という松竹の封切館がありました。伴淳とアチャコの「三等兵物語」シリーズをここへ父親に連れられて見に来たものでした。だから純粋戦後の生まれながら柱にしがみついてセミをやれ!とか机のと机の間の通路にタタされて、両方の腕で両側の机に手をついて足を上げぐるぐる回して自転車をこげ!そら、上官がきたぞ、敬礼だ!といっていじめられることなんかをこの映画で勉強(!)しました。後年、ボーイスカウトがふざけてこんなことをするのを見て、驚きました。こういうことだけは戦争の勝ち負けに関係なく伝わっているんですよねぇ。
 その後オヤジの転勤で引っ越した清水の街にも当時はまだまだ映画館がありました。新清水の駅前にも三件くらいの映画館がありました。横にも一軒。ちょっと離れたところにも洋画が専門のオリオン座というのがありましたけれど、清水にはシネマスコープの映画館はさすがになくて、「ベンハー」は静岡へ見に行きました。そうそう、ベンハーは再制作されているそうで来年封切られるそうですよ。
 三保にはなんと「羽衣劇場」という名前の映画館がとっくの昔になくなってしまった清水港湾線の終点の三保駅と羽衣の松入り口との間あたりにあって、三保小学校(今の三保第一小)から映画を見に行くのはここしかありませんでした。
 大学生になった頃には渋谷と池袋の名画座ばかりでした。文芸座でやくざ映画の6本立て、西口にも名画座がありました。東横だったか丸物だったか。それでもデートはちゃんと有楽町界隈に行きましたね。