ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

1967

 東京オリンピックが1964年、ビートルズが来日したのが1966年。そして私が大学に入ったのが1967年。その頃の大手町の交差点は南東角に住友銀行、北東角が三菱鉱業、北西角が貿易会館ビル。そして南西角は空き地だった。その空き地の日比谷隣も空き地で、そこへ建ったのが猪谷千春が所属していたAIUのビルだった。それは2009年に日本生命が買い取り、今は日本生命丸の内ガーデンタワーになっている。
 北へワンブロックいったところに大手町ビルが建っていて、その向かいが確か長期信用銀行のビルだった。あちこち空き地だらけで、読売新聞の社屋ですら建っていなかった。だから、今行ってみると、もう嘘のような景色で、自分がどこにいるのか、わからなくなる。1970年代になると、ひとつふたつと空き地がふさがってきた。その頃を戦後第二期とすると、今が戦後第四期くらいになるんだろうか。
 パレスホテルもすっかり変わってしまったし、その隣の大手町交差点の南西角に建ったビルももう代替わりして久しい。今ではそこが三井住友銀行の本社ビルになっていて、元々の住友銀行のビルは三井住友銀行本店東館となっている。もっとも三井住友銀行の本社ビルといっても、所有者は三井不動産で、一棟全部を賃貸借している。三菱鉱業があったところは周辺にあった東京海上別館や、電電公社系と共に大手町ファーストスクエアになった。
 ま、つまり軒並み全く変わったのだ。25年ほど前までの20年ほどをこの界隈で暮らしたが、もはや全くわからない。ごくたまに、神田の高速の入り口から首都高に入ろうとして通りかかることがあるけれど、日頃どこを曲がっていたのか、見当がつかない。

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外装は変わったけれど、ビルそのものはそのままの大手町ビル

 今から振り返ると、60年代後半の大手町は、夜になると薄暗くて、街頭が頼りだったくらいの通りだった。丸ノ内線は走っていたわけだけれど、東西線が中野から東陽町まで開通したのが1967年だった。初めて仕事で大手町へ行った時、私は東京駅から丸ノ内線に乗るべきなのかと思った。で、東京駅から「地下鉄」というプレートを頼りに歩いて、気がついたら大手町ビルにいた。つまり丸ノ内線でいえばひと駅分歩いたわけだ。
 だから大手町から銀座へ出るのには昔から二駅乗るだけで良かった。当時丸ノ内線銀座駅は西銀座といった。気軽に銀座へ出ていった。というよりは大手町にいたらなにもなかったのだ。せいぜい大手町ビルの地下に食べ物屋があるくらいだった。あの地下には本屋もあったし、鰻の「ての字」もある。多分大改装が終わったのかも知れないけれど、昔のまんま残っているのはこのビルくらいのものではないだろうか。丸の内ビルの地下には格安の呑み屋があって、途中でビルのトイレに行くと、丸ビルが建った頃からのまんまの天井の高いトイレが気持ちよかった。
 翻って、銀行会館の三階には、なんと畳の和室があって、そこで会食ができた。一体何の集まりだったのか知らないが、某世襲有力自民党代議士を囲む昼飯会なんぞに誰かの代理で出席したことがある。あれは一体何だったのか、今でもわからないままだ。我が社とはなんの利害関係もない人だったけれど、きっとなにかウラがあったんだろう。私は「はい、会食したことはあります。しかし、私にはなんの力もご覧のようにありません」と武田と違っていうことができるぞ。