ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

デジタル社会

 30年ほど前、初めてパーソナル・コンピューターなるものに手を触れた時に、あ、これは面白いな、と思った。便利だな、と云うのではなくて、面白いな、だった。いじっていて何かがそれらしい活字で印刷したように書くことができることだけでも面白いな!と思った。なにかを書くことに魅力さえ感じた。その割には、全然面白い文章を書けるようにはならないけれど。それがアップルだった。しかし、とても自分の金で変えるような価格ではなかった。10人ほどの職場にようやく導入されたのはたったの一台だった。
 あれから自分が個人的に入手したアップルは8台くらいにはなるだろう。iPadは三台目だけれど、iPhoneは初めて手に入れたのが一昨年だ。iPhoneが世に出たのは2007年1月で、その年には友人のひとりが持ってきて「この画面にギターが出るでしょ?これをホラ」といってガラスを撫でたらギターの音がして、飛び上がって驚いた。あれからどんどんみんなが持ち始めるのを横目で見ながら、ガラケーiPadの組み合わせでなにが困るんだとうそぶいていた。あの頃から私はどんどん友達の輪が狭まっていって、どうしても私に連絡を取ろうとしてくれる人には家に電話してね、といってガラケーはマナーモードのままにしていた。

 一昨年、米国西海岸にいる友人のところへ遊びに行った時に、連絡が取れないので、プリペイドガラケーを買ったのを機にSIMの入れ替えで現地でも音声で連絡できるようにとiPhoneにした。もっともそれ以来、COVID-19で旅に出られない。
 四六時中パソコンの前に座って、ニュースを読み、資料を探し、写真を調整したりしている、この私でも、アップルのコンピューターの理屈がわからない。だから、インテルのチップからM1というチップに乗り換えたことがなにを意味し、それが動結果として出てくるのかなんて、全然わからない。それでも、おおむね操作上の慣れというものが身についてきているから、よっぽど面倒なものや、初めて見るような作られ方をしているものでなければ「あ、多分ここを触ると・・・ホラ、そうだった!」という展開が良く起こる。しかし、そんなにアプリケーションソフトを立ち上げたこともなければ、動かしたこともない人にそんな、いわゆる「勘」のようなものが備わっているとは思えない。ところが、今の子どもたちは、そんなものもなんのその。知らないうちに動かしている。彼等はなんのてらいも無く、どんどん触っては失敗して学んでいる。学習能力も高い。

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圧倒的なユキヤナギ 隅田公園

 そこへ行くと、高齢者は怖くて触らない。触って壊したら怒られる!と思っている。誰に怒られるんだろうか。だから、学習チャンスも極端に少ない。だから、いつまで経っても慣れない。
 そういう状況にある人たちまで含めてデジタル社会を政府は語っているだろうか。マイナンバーは「健康保険証にも使えます」と赤字で書いた封筒が届いた。他に健康保険証がもう発行されないというのであればまだしも、発行されるというんだから、別段今までのままで構わないという考え方で良いという気がする。というのは、この政府では、平気で中の情報がだだ漏れる可能性がないとはとても言える状況ではないからだ。それでもセキュリティーさえ厳格に守れれば、便利になるだろうという分野はいくらでもある。例えば、病院のカルテが全国でデジタル集約化ができていれば、どこの医者にかかっても、その患者のこれまでのカルテがその医者の元に表示できれば、あっちにいっても検査、こっちにいっても検査、ということにならずに済むし、既往症にしても、その程度にまでわたって瞬時に医者が把握できる。これは非常に便利だ。災害がきっかけになって、歯医者のカルテをデジタル共通利用可能にすれば、もしもの時の遺体鑑別に便利だ、という話題を先日テレビで見たが、これなんかは(災害時の話で、恐縮だけれど)意味がわかる。

 病院のカルテのデジタル化はかなりのクリニックで進んでいるから、ネットにするのにはハードルはそれほど高くない。しかし、それでも未だに紙のカルテを続けているクリニックも少なくはない。私が年に一回くらいは行く耳鼻咽喉科は未だに紙で、分厚くなる。しかし、その理屈まで素人には必要が無い。
 画期的な先進技術を導入する時には必ずこぼれ落ちる人たちがいる。その人たちをどうやってこぼれ落ちたままにせずに進んでいくか、ということに着目するのが政治の役割だ。