ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

村井吉兵衛

 かつて東京の都立高校には学区制が敷かれていて、私が通っていた地域は第一学区と呼ばれていた。港区、千代田区、品川区、大田区がその区域だった。不思議な制度になっていて、入学試験一発で合否が決まるのだけれど(内申書がどうのこうのだったけれど、実質そんなの意味ない)、第一志望校の合格ラインに入っていなかったとしても、学区全校の定員内に入っていれば、どこかに行ける、という制度だった。
 今だったらその採点をデジタル処理すれば一発で解決するわけだけれど、当時はどうやってその序列を判断していたんだろう。伝票かなんかで体育館の床にでも並べたんだろうか(まさかなぁ!)。
 かつてアナログ時代のスキーの草レースでは横に貼った紐に、次から次にゴールしてくる選手のタイムを書いた荷札をぶら下げ、後ろから速い選手結果が入ってくると割り込ませてぶら下げた。
 
 第一学区で最も偏差値が高かったのが日比谷高校で、かつては東大合格者が全国一番だったこともある。私の中学からは毎年30人ほどがこの高校に入学したから、学年で30位くらいに入っていれば将来を期待されていた。私のような一割内にカツカツな連中にはおよそ縁がなかった。しかし、日比谷、小山台、九段、田園調布、雪谷、城南、あたりを点数が足りなくて落ちてしまっても、全体の定員の中に残っていればどこかにいけたというわけだ。三田、大崎、赤坂、八潮なんてところに学区内合格者として願書を出せば行けた。しかし、それにも要領があって、自分が学区内合格者としてどのへんのポジションにいるのか判定して、残れるところを見極めなくてはならない。それが多分入試担当教師の腕の見せ所だったのかもしれない。「きみ、そこへ出すのはやめた方がいい、危ないよ」といわれたような記憶がある。そしてその結果、雪のふる日に貼り出された結果を見に行った記憶がある。その辺の高校が結局定員に満たなかったときは二次募集が行われることになっていたんだけれど、それが本当に実施されたかどうかはよく知らない。

 今調べたら九段高校は2009年に閉校になっているというので驚いた。どうしたのかと思ったら2006年に区立へ移管され、区立九段中高一貫校になったということだった。第5学区だった白鴎高校は2005年に付属中ができて一貫校になったが、こっちは都立のまんまだ。中高一貫校にしてエリート校作りを図ったんだろうけれど、どうしてまちまちなんだろう。

 話はあちこちへ飛ぶんだけれど、日比谷高校というのは名にし負う名門校なわけで、もとはといえば本郷にできた府立一中だった。すぐに今の学士会館の場所に移転。次に今の帝国ホテルのあたりに移転、そこから今の東劇あたりに移転、またまた今の検察庁のあたりに移転と、点々とし、1929年にようやく今の場所に動いてきた。
 現在の場所はもともとはタバコで財を成した村井兄弟商会の村井吉兵衛が持っていた山王荘の敷地だった。議員会館側に位置する正門がその名残なんだそうだ。山王荘は1916年に着工したらしいが、いつ竣工したのかは知らない。明治天皇の女官で、後妻になった山茶花の局・薫子(かをこ)の為に村井吉兵衛が建てたんだと書いてあるのも見たことがある。村井吉兵衛は1926年(大正15年)1月2日に死亡したが、村井銀行はその翌年に休業、そして破産。日本橋にあった本店は建て替えられて、わずかに元のファサードだけが残されていたが、それもビルもろとも、現在工事中の超大規模再開発で潰されてしまった。とにかく日本には歴史的建造物なんぞどこ吹く風で、デベロッパーとジェネコンのためだけに存在しているのである。
 村井銀行の栄華のあとは京都円山公園にある長楽館に見ることができる。かつて私はこの村井一族の末裔の方のもとで働いていたことがある。非常にフェアな、私が尊敬する元上司お二人のうちの一人で、この方も考えてみると日比谷高校→東大だった。