録画してあったNHKの「だから、私は平野レミ」を見た。
お父さんの平野威馬雄はかつて「話の特集」の常連メンバーだったから書いたものは読んでいた。なかなか変わったおじさんだとは思っておった。アメリカ人の父親と日本人の母親のもとに生まれたのが平野威馬雄なんだから、平野レミは四分の一アメリカ人の血が入っているということになる。話の特集の全部をとっておけばよかった。和田誠だって「話の特集」の常連だった。しかし、そこで和田誠と平野レミがつながるわけではない。
平野レミは久米宏と一緒にラジオの番組で、外に出ていって「男が出るか、女が出るか!」と叫んでいたのをよく覚えている。嫌な女だなぁ、なんてうるさいんだ、と私は思っていた。ところが彼女は好きであれをやっていたのではないというのだ。彼女はやたらと口うるさい進学校だった高校をやめてしまって、お父さんがいっていた「好きなことを徹底的にやれ」で、シャンソンを唄いだして、シャンソン歌手になっていた。それが売れるために「男が出るか!」をやることになって、それが嫌で嫌でしょうがなかったという。ところがその「男が出るか!」で平野レミを知った和田誠が久米宏に紹介してくれといったんだというのだ。そして二人はあっという間に結婚した。
和田誠は平野レミの料理を熱愛した。息子の和田唱がいうには突拍子もない外観の料理が出てきた時に、「何だ、これ!」といったら和田誠が「食べてからいえ、見た目でいうな」とたしなめたそうだ。
和田誠の週刊文春の表紙絵にでてくる野菜の多くは、平野レミが台所に転がしておいて芽が出てきてしまった玉ねぎなんかが題材になったりして、しかもそれを和田誠は表紙絵にしたあと「ありがとう」といって平野レミに返したそうだ。
「お父さん、お母さん、和田さんに遭いたいなぁ」といって平野レミは涙する。「みんな死んじゃった」と涙する。でも、和田唱には「死んだら恥ずかしいから誰にもいわないでね」という。そういいながら「死ぬ気がしない」ともいっているそうだ。私も平野レミは死なないんじゃないか、という気がしないでもない。
でも、あのうちは、お母さんの影が薄いよねぇ。
そうそう、平野レミは吃音持ちだったとは知らなかった。
久米宏の「久米宏です」という本(世界文化社 2017年)によれば、「それいけ!歌謡曲」(1970年10月-1979年4月)という月-金の帯番組の中の「ミュージック・キャラバン」というコーナーで久米宏は平野レミと一緒だった。本当に平野レミがなにをいいだすか分からなくて、「歩く放送事故」といっていたと。そして麻雀仲間だった和田誠から「彼女と結婚したいから紹介してくれ」といわれたが「あの人だけはやめた方がいい、人生を棒に振りますよ」と取り合わなかったのに、和田誠はディレクターに頼み込んだらしい、と書いている(p.58)。
それにしても平野威馬雄が50冊にもなる日記を残していたとは驚きだ。うちのおやじも日記を残してはいたのだけれど、あまりにも続き文字で判読が不可能で、最後の一冊だけ取ってある。全部とっておけばよかった。