ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

睡眠

  • 20:45 - 23:30
  • 07:00 - 09:00
  • 15:30 - 17:40
  • 21:10 - 00:10
  • 02:15 - 06:40
  • 21:40 - 24:00
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ラジオ深夜便笠置シズ子をやっていたんだけれど、昭和14-15年頃のOSK時代の彼女の歌はもうすっかりビッグバンドジャズ。「ラッパと娘」「センチメンタル・ジャーニー」「センチメンタル・ダイナ」なんて、そのまんま今やって貰いたいくらいだ。あんなミュージッシャンがいたのに、戦後の米軍ベース廻りにとってつけた様なミュージッシャンが雨後の筍の様に誕生したのは、それだけ演奏する場所がたくさんあったということなのか。のりの良い歌い手でさすがだ。今聞いてみたいね。私が一番印象に残っているのは、東京12チャンネルに出てきて唄っているところだろうか。歌は、〽︎ わてほんまによういわんわぁ〜っていう買い物ブギかなぁ。でも今じゃ「わしゃツンボで聞こえまへん!」は許されないだろうなぁ。そういえば天知総子が東京ブギウギを唄っていたっけなぁ。

 「ラッパと娘」では横でトランペットを吹いているのは森山久といって森山良子の父親だという。彼はサンフランシスコ生まれの日系米国人二世で、NHKが彼を取り上げた番組を造ったことがある。森山久の妻、浅田陽子とティーブ・釜萢の妻、恭子が姉妹で、それぞれの娘と息子、つまり森山良子とかまやつひろしが従兄妹だということになる。


Kasagi Shizuko - Rappa To Musume (ラッパと娘)

4月1日

f:id:nsw2072:20200401012522j:plain:w360:left この日に生まれた人までが、早生まれで一年上の連中と進学する、というのはもうずいぶん前から知っているんだけれど、普通に進学した連中の中には、このことを知らない人も随分いる。で、なんでなんだよ、という話になるが、夜中に生まれてどっちだったか、判別がつかない場合があるからだろうと思ったんだけれど、どうもそうじゃない。だって、そうだとしたら、1日と2日の境はどうするんだ、ということになる。
 これをきちんと説明してくれている人がいる。→ こちら

  • 学校教育法施行規則第五十九条 小学校の学年は、四月一日に始まり、翌年三月三十一日に終わる。
  • 学校教育法第十七条 保護者は、子の満六歳に達した日の翌日以後における最初の学年の初めから、満十二歳に達した日の属する学年の終わりまで、これを小学校、義務教育学校の前期課程又は特別支援学校の小学部に就学させる義務を負う。
  • 民法第百四十三条 週、月又は年によって期間を定めたときは、その期間は、暦に従って計算する。2 週、月又は年の初めから期間を起算しないときは、その期間は、最後の週、月又は年においてその起算日に応当する日の前日に満了する。ただし、月又は年によって期間を定めた場合において、最後の月に応当する日がないときは、その月の末日に満了する。

「ある日から1年が満了するタイミングは、1年後の同じ日付ではなく、その日付の前日を基準にする」
「3月31日の24時」をもって満年齢が1つ増える

『結論』
 4月1日が誕生日の人は、法律では満六歳に達するのが3月31日24時という扱いなので、「満六歳に達した翌日以後における最初の学年」は、満六歳に達した翌日の4月1日に始まる学年となる。
 なんでこんなこと?それは閏年の29日に生まれた人の救済らしい。なるほど、そうでないと、2月29日生まれの人はなかなか成人式が来ない。

 実はわがつれあいがこの日の生まれである。祝・人生6廻り完了!これで同じ年齢となる。そういうわけで私たちは高校卒業までは同学年だったのだけれど、大学に入ったときには向こうが一年先輩になっていた。
 息子が花束とパウンドケーキを持ってきたけれど、ご時世柄玄関で帰って行った。

体力の衰え

 千代の富士の引退会見じゃないけれど、ここのところの外出自粛のおかげで、体力の衰えは驚くほどで、以前だったら、家を出て、そうだ、あそこまで歩いて行こうなんて思ってスタスタ出かけていたというのに、頭の中で考えただけで、もうどぉ〜ッと草臥れてしまいそうで、やめて帰ってきちゃう。
 こりゃヤバいことになったなぁ。
 ヤバいことになったといえば、これでは飲食店を営んでいる友人たちはみんな多いに困惑していることだろう。明日をも知れない状況に陥っている。こんな時のために政府があるのかと思ったら、彼等は自分たちの権益を抱え込んで他のことなんて考えちゃいないんだろうなぁと思わせるに充分な案配。見たところ、なにもしない。どんな手を打ってくれるんだろうと思っていると、なんにもしない。なんにもしないでもそのうち嵐は通り過ぎると思っている様だけれど、この嵐は居座る。居座って、ピクとでも動くものがいればそれを根絶やしにする。この国の将来は相当に危うい。どういうことになっちゃうのかといえば、巷に職にあぶれた人間がうようよいて、通りかかった人間がいたら、小銭でも良いから巻きあげ、弱い物はどんどん消えていく。そうだ!あの松田優作の「ブラック・レイン」だ。
 建物も、道路も、橋もボロボロになった街に闇の世界が拡がっている、そんな世界がやってくる。もうその時には、生きちゃいないからかまわないといえばかまわないけれど。そんな国にならない様にするには、今ここで踏ん張らないと。

f:id:nsw2072:20200331174944j:plain:w360:left そろそろ八重桜がたわわに咲き誇りそうだ。

眠い

 なんかの病の前兆なのかなぁ。やたら眠い。
昨日昼飯を食ったあと、2時間ほど寝てしまう。
夕方18時半から2時間ほど寝てしまう。
夜22時から3時間ほど寝てしまう。
もうこれで7時間近くも寝ているので、睡眠充分だと思うんだけれど、午前3時になってまた眠くなる。
どうしたんだろう。

ハゼが

 私が生まれて初めて釣りをした、というのは、多分ハゼだろう。当時、私は父親の転勤先で三保半島に暮らしていた。小学校4年の冬だ。転校したばかりの小学校で一番盛んだったのはソフトボールだけれど、釣りは日常的にあったといって良いんだろう。近所の雑貨屋、小栗商店では夏は虫取り網が置いてあるところに何の変哲もない竹が刺さっていた。なにをする物なのだろうかと思っていたら、それが子どもたちが釣り糸を結びつけてハゼ釣りをする竿だった。釣り糸をどうしたのか、思い出せないのだけれど、折戸湾の商船大学のコンクリ桟橋にいって、そのあたりの石をひっくり返すと、近所で養殖している牡蠣が逃げてきているのがみつかる。それをたたき割って、実を取り出してそれを餌にした。しかし、そんな物で釣れるわけがない。たまさか何かの間違いで釣れるのはハゼではなくて、カワハギの子どもみたいな魚だった。それでも、学校から帰ってきてから夕飯までの間、じーっと糸を垂らしていた。
 知り合いのうちのお爺さんが本格的に毎日湾内や外海に釣りにいっている人で、湾内には手漕ぎのボートまで持っていた。そのお爺さんから、竿やらえさ箱やらを貰って、ゴカイを掘って一緒に釣れていって貰う様になって、初めてちゃんと湾内でハゼを釣ったり、外海で天秤を投げて鱚を釣ったりした。
 ある日、父親が明日は朝3時に車の迎えが来るから、その車に乗って興津川に鮎を釣りにいくといわれた。どういうことかわからなかったけれど、今になってわかるのは、父親の仕事のお客さんが興津川に鮎釣りに行きたいといったらしくて、その接待だったというわけだ。竿から毛針の仕掛けから、一体誰がどこから手に入れてきたのか知らないが、ちゃんと私の分もあって、早朝、朝まずめから、途中河原で昼寝をして休み、また夕方まで、鮎を釣った。それは何度か行ったから、そのお客さんがしょっちゅう来ていたということか。
 横浜に戻ってからはもう全く釣りに行くなんてチャンスはなくなった。そんな環境もないし、そんな仲間だっていないのだ。次に竿を持ったのは、子どもたちが幼稚園から小学校へ上がる頃、草津の山奥にキャンプに行く様になってからだ。30数年前だろうか。一般に公開されているわけではない山の中にテントを張ることができ、そのテリトリーの中にはいくつかの池があった。かつて、その池にニジマスを放したことがあるといっていた。ある日上にあるふたつの池にお客さんを案内したことがあって、周辺の渓流を釣り歩いてきたその人が「竿を出しても良いか?」といって取りだしたのがフライだった。その二投目にニジマスがヒットした。それを目の当たりにした私はすっかり魅了されてしまった。安いフライ竿を買った。SANSUIに行ってちゃんとしたフライロッドも、ルアーロッドも手に入れた。そのうち、いくつかある池に、養魚場からニジマスとヤマメを買ってきて放流した。あとで、環境庁の人から怒られた。その人たちに熊が寝たあとや、熊の糞の存在を教えられて、ビビった。すぐ裏の川に入漁料を払って踏み込んだこともあったけれど、いつもその「熊」が頭にこびりついていて、および腰だった。
 25年前に豪州へ行った。娘の学校の同級生で仙台から来ている子がいた。そのお父さんは、地形学者で大学の先生だったけれど筋金入りの釣り好きだった。噂では釣りのために当地の学校に来たんだといわれるくらいだった。学校行事でお目にかかってから釣りのポイントを教えて戴いた。それからは刺身を食べたいばっかりにあちこちのポイントに繰り出した。日本人会でも釣りは盛んだった。同じく娘の学校の関西から来た同級生のお父さんは、なんと釣り用にボートまで持っていて、車で引っ張って出かけるという、まるで現地の人たちの様な趣味を楽しんでいた。朝早く家を出て、ポイントの桟橋からだったり、エンジン付のボートを借りたりして鰺、鱚、マトウダイサヨリ、鯖といった魚を釣っては、友人同士で交換し、刺身を楽しんだ。オージーはそうしたアウトドアを楽しむ人がとても多いので、情報は多い。しかし、彼等の釣り方は非常に大胆で、肉を大きな針にさしては、ポ〜ンと沖に投げて、それっきりだったりする。だから、魚がすれていない。鰺のサビキなんて日本から持ってくると、あれよあれよと釣れた。だから、日本に一時帰国すると、みんなのリクエストに応えて上州屋へ行った。
 日本に帰ってきてからは、全くやらなくなった。もう20年以上経つ。

f:id:nsw2072:20200329220541j:plain:w360:left 天気予報の通りに雪は降った。パンがなくなったので、以前と比べると、もはやすっかりやせ細ったバタールを買いにいった。場所によっては歩道がべちゃべちゃになった。得てして歩道は車道にむかって傾いているので、滑りはしないのに、滑ってしまう様な気がして、勢い及び腰で歩いたりする。おかげで家に帰ってきてから腰が痛い。ラーメンを作って食べる。
 こんな天気なのに、スーパーの魚売り場で「手巻き寿司セット」を見つけて矢も楯もたまらず買ってしまう。つれあいは寒いから鍋にしようとしていた。いや、手巻き寿司にする。