私が生まれて初めて釣りをした、というのは、多分ハゼだろう。当時、私は父親の転勤先で三保半島に暮らしていた。小学校4年の冬だ。転校したばかりの小学校で一番盛んだったのはソフトボールだけれど、釣りは日常的にあったといって良いんだろう。近所の雑貨屋、小栗商店では夏は虫取り網が置いてあるところに何の変哲もない竹が刺さっていた。なにをする物なのだろうかと思っていたら、それが子どもたちが釣り糸を結びつけてハゼ釣りをする竿だった。釣り糸をどうしたのか、思い出せないのだけれど、折戸湾の商船大学のコンクリ桟橋にいって、そのあたりの石をひっくり返すと、近所で養殖している牡蠣が逃げてきているのがみつかる。それをたたき割って、実を取り出してそれを餌にした。しかし、そんな物で釣れるわけがない。たまさか何かの間違いで釣れるのはハゼではなくて、カワハギの子どもみたいな魚だった。それでも、学校から帰ってきてから夕飯までの間、じーっと糸を垂らしていた。
知り合いのうちのお爺さんが本格的に毎日湾内や外海に釣りにいっている人で、湾内には手漕ぎのボートまで持っていた。そのお爺さんから、竿やらえさ箱やらを貰って、ゴカイを掘って一緒に釣れていって貰う様になって、初めてちゃんと湾内でハゼを釣ったり、外海で天秤を投げて鱚を釣ったりした。
ある日、父親が明日は朝3時に車の迎えが来るから、その車に乗って興津川に鮎を釣りにいくといわれた。どういうことかわからなかったけれど、今になってわかるのは、父親の仕事のお客さんが興津川に鮎釣りに行きたいといったらしくて、その接待だったというわけだ。竿から毛針の仕掛けから、一体誰がどこから手に入れてきたのか知らないが、ちゃんと私の分もあって、早朝、朝まずめから、途中河原で昼寝をして休み、また夕方まで、鮎を釣った。それは何度か行ったから、そのお客さんがしょっちゅう来ていたということか。
横浜に戻ってからはもう全く釣りに行くなんてチャンスはなくなった。そんな環境もないし、そんな仲間だっていないのだ。次に竿を持ったのは、子どもたちが幼稚園から小学校へ上がる頃、草津の山奥にキャンプに行く様になってからだ。30数年前だろうか。一般に公開されているわけではない山の中にテントを張ることができ、そのテリトリーの中にはいくつかの池があった。かつて、その池にニジマスを放したことがあるといっていた。ある日上にあるふたつの池にお客さんを案内したことがあって、周辺の渓流を釣り歩いてきたその人が「竿を出しても良いか?」といって取りだしたのがフライだった。その二投目にニジマスがヒットした。それを目の当たりにした私はすっかり魅了されてしまった。安いフライ竿を買った。SANSUIに行ってちゃんとしたフライロッドも、ルアーロッドも手に入れた。そのうち、いくつかある池に、養魚場からニジマスとヤマメを買ってきて放流した。あとで、環境庁の人から怒られた。その人たちに熊が寝たあとや、熊の糞の存在を教えられて、ビビった。すぐ裏の川に入漁料を払って踏み込んだこともあったけれど、いつもその「熊」が頭にこびりついていて、および腰だった。
25年前に豪州へ行った。娘の学校の同級生で仙台から来ている子がいた。そのお父さんは、地形学者で大学の先生だったけれど筋金入りの釣り好きだった。噂では釣りのために当地の学校に来たんだといわれるくらいだった。学校行事でお目にかかってから釣りのポイントを教えて戴いた。それからは刺身を食べたいばっかりにあちこちのポイントに繰り出した。日本人会でも釣りは盛んだった。同じく娘の学校の関西から来た同級生のお父さんは、なんと釣り用にボートまで持っていて、車で引っ張って出かけるという、まるで現地の人たちの様な趣味を楽しんでいた。朝早く家を出て、ポイントの桟橋からだったり、エンジン付のボートを借りたりして鰺、鱚、マトウダイ、サヨリ、鯖といった魚を釣っては、友人同士で交換し、刺身を楽しんだ。オージーはそうしたアウトドアを楽しむ人がとても多いので、情報は多い。しかし、彼等の釣り方は非常に大胆で、肉を大きな針にさしては、ポ〜ンと沖に投げて、それっきりだったりする。だから、魚がすれていない。鰺のサビキなんて日本から持ってくると、あれよあれよと釣れた。だから、日本に一時帰国すると、みんなのリクエストに応えて上州屋へ行った。
日本に帰ってきてからは、全くやらなくなった。もう20年以上経つ。