ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

「奥草津休暇村」

 それは群馬県六合村というところにあった。この村の名前は結構由緒ある名前だといわれていたんだけれど、今では中之条町にのみ込まれておしなべて中之条町ということになっている。
 戦前から鉄鉱石を掘り出していた山で、露天掘りをしていたという。ここからケーブルで昔の六合村役場に近いところにあった太子駅までおろし、ここから専用鉄道で長野原に持って行っていた。鉄鉱石は川崎の製鉄所へ運ばれていた。1961年には旅客も運ぶようになったけれど、1970年にとうとう廃線となった。鉄山としては1965年に資源枯渇もあるけれど、段々海外の高品位な鉄鉱石が入ってくるようになって、出荷を停止。
 企業は露天掘りした山をそのまま営林署に返すとしたところ、営林署から埋め戻して返して欲しいと要求され、それなら売ってくれと逆提案。そんな山奥の土地だから格安で掘削権のリースではなくて、自分のものにして、そこから埋め戻しをした。
 私がここに気がついたのは、子どもがもう生まれていた頃だから、おおよそ30年ほど昔のこと、つまり1980年代の中頃のことで、その年のGWにキャンプに行こうと会社の帰りに秋葉原のニッピンでバーゲン品で出ていた小川テントの小さなテントを買って帰った。ワンボックスの車にテントと布団を積んで出かけ、結局寒くて横に立っていた三角屋根のバラックに泊めて貰った。石油ストーブがあって助かった。なにしろGWの頃だとあのあたりはまだ雪が降る。
 その頃から毎年GWから始まって、夏休みも秋の紅葉の時にも、家族だけでだったり、友人の家族を連れてだったり、外国へ赴任するまでは毎年出かけていた。
 子どもを育てる上では文句のない自然に山がなっていた。とても昔露天掘りをしていたとは思えないくらいだった。小さな水の流れが上の山から流れてきていて、その水系にはヤマメがいた。一番上の池にはニジマスがいた。どうしてなのかと思ったら、かつて放流したのだそうだ。ヤマメは近くの川の漁協が毎年ヤマメを放流していたのでこちらにも流してくれたのだそうだ。それ以前には下にあった広い池に放流して、釣り堀にしていたことがあったという。
 ある日、某新聞の記者の人たちと懇親会を兼ねて遊びに来たら、その中のお一人がフライのタックルを持っていて、竿を出したら、手頃なニジマスがヒットして驚いた。それから私はここの池でフライやルアーを楽しんだ。もちろんあとから放流もした。環境庁のお役人に怒られたことがある。
 子どもたちも小さい頃は楽しくやっていた。だんだん、つまらなく思えてきたのはどこの家でも同じなんだろう。しかし、親戚の子どもも含めてみんなに長靴を履かせて山の中をあちこち歩いたことを今でも想い出す。あの頃、小学校へ入るか入らない頃の彼らは本当に屈託がなくて、良い顔をしていたと今想い出すと懐かしくて寂しい。
 もう20年ほど、あの山に足を踏み入れていない。久しぶりにGoogle mapで見た。見なければ良かった。
 企業はもうとっくに手放していて、村に寄付したそうだ。その上、村は中之条町になってしまって、整地して、スパ草津のサッカーチームも練習に来た大きなグランドになっていたところは全面的に太陽光発電パネルで埋められている。一体ここで発電した電気はどこで使っているんだろう。
 周囲にいくつもあった小屋はほぼ全部なくなっていて、休憩所の屋根だけが見える。そしてそこに「チャツボミコケ公園」と書いてある。そこに車を置いて、胸突き八丁を歩いてチャツボミコケを見に行けるようにしてある。今やクラブ・ツーリズムのバスツアーにも組み込まれているのだそうだ。どうやってここまで入ってくるのかと思ったら、草津で一泊して、小型バスに乗り換えてくるのだそうだ。
 いくつかあった池はみんな涸れていて、酸性の水が流れ込む、生き物が住めない池だけが残っている。当時遭遇した、ニホンカモシカや、糞や、寝たあとを見たことがある熊、当時同じ木の枝によくとまっていたオオワシはもういないのかも知れない。
 拾ってきたのに、すぐに死んでしまった子猫を抱えた息子と二人でやってきて埋めた場所を、また訪れるチャンスはもうないだろう。
 私たちの思い出もこうしてひとつひとつ消えていく。山は山だけれど、人間がその表面をひっかいては消えていく。