ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

 非常にローカルな雑誌なんだけれど、時々こうして地域限定の増刊号を出している。で、この表紙がこの日曜日まで銀座・伊東屋で個展をやっている岡田親(親し)画伯の作品。月曜日に行ったときにそういうのが出るんだと聞いていたんだけれど、今日、教文館に行ったら、出ていたので、その号を持っていって、ご本人を書いている頁にサインを貰ってきた。こういうのはどうやってこんな話にまとまっていくんだろうか。
 そもそも彼がこんな絵を書いていることをニッポン放送の上柳正彦がラジオで喋ったのは彼のかみさんがわざわざ彼の絵はがきを自転車に乗ってニッポン放送まで持って行ったのがきっかけだというのだから、多分そういうパブリシティに務めているってことなんだろう。ちゃんと見に来るお客さん方に懇切丁寧に、こういう場面なんだとか、こういうことから絵筆を持つようになったんだとか、情熱ですよ!とか喋っているのを聞いていると、微笑ましい。今回も上柳の早朝の番組に出演したんだそうだ。誇らしげだった。


 この種の言論雑誌とでもいうようなものが本当に少なくなった。ほかといったら文藝春秋中央公論くらいか。論座も、現代ももうとっくにない。あとは正論、諸君、WILLみたいな偏向人種差別的雑誌で、あれを論壇誌とはとてもいえないだろう。それ位日本の出版界も今や息絶え絶えなのだ。店頭に人種差別主義本が平気で平積みになっている日本の書店界の文明度は相当に犯されている。
 丹念に地道な連載を書いている人たちに時として驚かされる。


 週刊誌で580円もして良くここまで続いているものだと驚くが、広告を取らないやり方が残っているのはもはやこの週刊誌くらいなものだろう。昔でいえば暮しの手帖だけれど、だからこそ正直なことを書くことができるわけで、東京オリンピック招致のエージェントに払われた金のことだってほかの雑誌やマスコミはもはや何事もなかったかのようだけれど、電通絡みだからこのまま終わりになってしまうんだろう。子どもの頃から母親がとっていた暮しの手帖の商品テストを興味深く読んでいたことを想い出す。そういえば結婚した若者に一年間暮しの手帖を送るということをやったことがあったなぁ。この週刊誌が頑張り続けることができるように定期購読するべきかなぁ。
 しかし、この週刊誌を読んでいるとほかでは報じられないことばかり。私たちがこの政権下で如何に目隠しをされているのかということを思い知らされる。そういえば等虚と教育委員会から君が代で退職させられた人の話を詳しく知ったのもこの週刊誌だった。



 保阪正康はきっと安倍晋三を激しく批判する本を書くな、と思っていたのだけれど、ここで田中角栄を持ち出して書くとは思わなかった。確かに彼はかつて田中角栄を書いているから、保阪が何をいうのか大変興味深かった。
 どうせだったらこの本は残しておいて、Kindle版を買おうと思ってAmazonでポチったらにっちもさっちも落ちてこない。おかしいなぁと思っていたら、メールに「発売されたらダウンロードできるようになります。発売日13日」って書いてある。おいおい、じゃ、私が買った書店の問題ですか?



 ベアテ・シロタ・ゴードンのことは以前に何かの本で読んだ記憶がある。しかし、もうほとんど忘れた。人間は忘れやすい。こうして何十年も頭に残してあったことがどんどん流れ出ていってしまう。
 この本は1995年に出された本を文庫にしたもののようだ。巻頭のジョン・ダワーの言葉ではないが、今のこのタイミングにゴードンの話は読んでおく必要があるだろう。彼女は日本国憲法に大きく関わっていたのだから。彼女は2012年に他界している。



 赤坂の日枝神社の氏子は皇居の周りがそうなっている。二年に一度が大祭で、間の年のことを「陰」と呼ぶ。今年は「表」の年で、今日は神幸祭といって「御鳳輦二基・宮神輿一基・山車五基が、王朝装束に威儀を正した総代役員や氏子青年の奉仕により、氏子区域を巡る」のだけれど、天気予報がバッチリ当たって、カンカン照り。お練りの行列は皆さん可哀想なくらいにうだっていた。



 そりゃそうだ、朝の7時半から出て、戻ってくるのは16時半。銀座・伊東屋の前に来たときは14:50の予定だった。多分交代しているんだろうなぁ。そうじゃないとスケジュール表を見ているとお昼休みの時間がないじゃないか。あ、日本橋日枝神社で一時間のお休みがあるぞ。それでなくても浅草みたいにほとんどひらったいところってわけじゃないから、大変だ。
 ウロウロしていただけで、今日は6,888歩。